*One More Chance*

5


 香穂子が息子をかいがいしく世話をしているのを見つめながら、吉羅は神聖で幸せなものを見せられているような気がした。
 本当に香穂子は綺麗だ。
 最高の母親なのではないかと思わずにはいられなくなる。
「…確かに家にいたら、ずっとあきちゃんの世話が出来るのは、とても嬉しく思います…。ですが…」
「何かね? 君には自由な時間が沢山与えられると思うが。君が大切に思っている息子の世話を思い切り出来る。私がもし親権を取ったとしても、君のような母親を見つけることは不可能だろうからね」
「…はい…。そう思って頂けるのは、とても有り難いと思っています」
 香穂子は素直に頷きながらも、吉羅を見つめてはくれなかった。
 そうしてしまったのは自分であることぐらいは、吉羅には解っている。
 感情的になって、香穂子に離婚を申し出てしまったことを物凄く後悔をしていた。
 吉羅が別居をしている間に後悔し続けていたことを、香穂子は知らない。
 人生は時間を戻すことは出来やしないが、せめてその罪滅ぼしはしたかった。
 なのに素直に自分の気持ちを言うことが出来ないのは切なくて辛かった。
「…食べ終わったら、君の家に行こう。後、ご両親にもきちんと謝罪をしたい」
 吉羅は辛抱強く、誠実な部分を香穂子に見せるしかない。
 吉羅は、それをじっくりと取り組んでいくしかないと思った。

 食事の後、吉羅と一緒に駐車場に向かう。
 フェラーリに乗るのは久し振りだ。
 恋人の時も、結婚してからもよくドライブに連れて行ってくれたものだ。
 香穂子にとっては素晴らしいデートだった。
 香穂子は後部座席にバギーカーをセットしてチャイルドシートにする。
 その様子を、吉羅はじっと見つめていた。
「これであきちゃんと私の準備は終わりです」
「…君は…、以前のように助手席に乗らないのかね?」
「…乗れませんよ。あきちゃんのお世話がありますから」
「また以前のように、助手席に乗って貰いたいものだけれどね」
 吉羅の言葉に、香穂子は答えることが出来なかった。
 息子と一緒に後部座席に乗り込んだ後フェラーリがゆっくりと走り出す。
 後戻りはもう出来ないと、香穂子はしみじみと感じた。
 これが一番良い方法なのだ。
 両親にも、暁史のことで一度吉羅と話し合い、決着をつけてくるようにと言われていた。
 出来ることならば、よりを戻して欲しいと、両親は思っていた。
 だからこそ香穂子は、ずっと重苦しく感じていたのだ。
 これで両親はホッとしてくれるだろう。
 だが、香穂子には切ない以外に何もなかった。
「香穂子、君はどうして実家で生活をしなかったのかね?」
「沢山実家には助けて貰っています。けれどもここは頑張ってふたりで暮らして行こうと思って、部屋を借りて頑張ってきました」
 だが夫である吉羅からは助けては貰わなかった。
 それは香穂子にとってはちょっとした意地でもあったからだ。
 離婚を申し出られた以上は、吉羅には頼らずに生きていかなければならないと、香穂子は強く思っていた。
「君は変わらないね。自分で前向きに頑張ろうとするところは…。少しは重荷を外して良いから」
吉羅の言葉が優しく染み通ってくる。
 その甘さに甘えてみたいような気がするが、何処かかたくなになってしまった自分な心を解きほぐすことが出来ない。
 香穂子は目を閉じて、心の中で深呼吸をした。
 車では何も話さなかった。
 だが、息子は車に乗るのが嬉しいらしく、ずっと妙ちきりんな歌を歌っていた。
「あきちゃん、楽しい?」
「うんっ!」
 こんなにも素晴らしい車に乗るのが初めてだからか、息子は本当に嬉しそうにしている。
 香穂子はその様子を複雑な気分で見ていた。

 およそフェラーリには似つかわしくないマンションの前に車が止まる。
 マンション前にあるコインパーキングに車を入れた。
「私も手伝おう」
「はい。有り難うございます」
 吉羅と一緒にマンションに入る。
 香穂子は惨めな気分にならざるをえなかった。
 吉羅には考えられない家だろう。
 ずっとセレブリティとしてやってきたのだから。
 吉羅は表情を変えずに淡々と香穂子たちの部屋に入った。
 本当にここまで表情を変えないひとは珍しいと、香穂子は思う。
 当面生活していく衣服やお気に入りのものを、香穂子はスーツケースとボストンバッグに詰め込んでいく。
 大人がふたりいるからこそ対処することが出来るというものだ。
 香穂子が荷物を纏める様子を、暁史がじっと見ている。
「ママー、こえっ!」
 暁史が持ってきたのは、お気に入りの茶碗だった。
「じゃあ持って行こうか」
「後、レオレオー」
 最近人気の“レオレオざむらい”が必笑にゃんこ剣を持ったぬいぐるみを持ってくる。
 香穂子の父親に買って貰い、とてもお気に入りのぬいぐるみなのだ。
「それはあきちゃんが運んであげてね。いつでも一緒だものね」
「あいっ!」
 荷物を纏め終わり、香穂子は吉羅に向き直った。
「終わりました」
「解った」
 吉羅は重い荷物を総て持ってくれ、フェラーリの停めてある駐車場へと向かった。
 フェラーリのトランクに荷物を入れる。
 これで、後戻りは出来ないのだ。
 吉羅と一緒に暮らしていかなければならないのだ。
 ずっとなのか、それともまた棄てられるのかは解らない。
 香穂子は緊張しながらそれに臨むしかなかった。

 吉羅は荷物を入れ終えて、正直、ホッとした気持ちだった。
 これで香穂子をそばに置ける。
 しかももう得られないのではないかと思っていた息子と一緒に。
 これ以上のことはないだろうと吉羅は思った。
 もう二度と後悔しない。もう二度と香穂子を傷つけたくはない。
 吉羅にはただその想いだけがあった。
 香穂子が子供が出来ない躰かもしれないことを隠していたことが、吉羅に怒りを沸かせた。
 素直に何でも話せる相手だと思われていなかったことが、ショックだったのだ。
 それもきちんと話さなければならないと吉羅は思う。
 香穂子とは、今まで以上に親密になりたかった。

 吉羅の車は、香穂子が住み慣れていた六本木に向かう。
 ミッドタウンの住居部分で暮らしていたのだ。
「君が使っていたところはそのままにしてある。直ぐに使えるだろう」
「はい」
 香穂子が帰ってくるということを信じて、吉羅は総てをそのままにしておいたのだ。
 香穂子がまた安心して暮らせるように。
 車を駐車場に停めて、いよいよミッドタウンの中に入る。
 香穂子はかなり緊張しているようだった。

 ただいま、が相応しいかは解らない。
 だが家の中は、香穂子が暮らしていた頃と、何ら変わりなかった。
「うわっ!」
 最初は警戒していた暁史も、よちよちと走っていった。
 今まで住んでいた家よりもうんと広いのだから。
「暁史は気に入ったみたいだね。それは良かった。彼のベッドは間も無く届くから、かつて君が書斎として使っていた部屋に置く。あの部屋がベッドが置けるスペースがあるからね」
「そうですね。ですが、私とあきちゃんは一緒に眠っていますから、お気遣いは無用ですよ」
「君は私と眠る。暁史はひとりで眠る。それだけだ」
 いきなり申し出られて、香穂子は目を丸くした。
 まだ一緒に眠るのには抵抗がある。
 吉羅と一緒に眠ってしまえば、どうなるかは充分過ぎるぐらいに解っていたから。
 だが吉羅のまなざしは、冷たく命令するかのように光っていた。



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