桜咲く頃

〜レオナードとエンジュ〜


 冷たい春の薫風が、確信に満ちた愛に気付かせてくれたのよ----


 窓を開けていると、鈍色の光に透けて白くなった桜の花びらが、まだひんやりとした風にふわりと揺れて髪に止まった。
 それをそっと指先で取ると、エンジュはフォトフレームの前に置く。フォトフレームの中に飾られた写真は満開の桜が切なく焼き付いている。モノクロームなのに、何故か総天然色を越える華やいだ美しさがある。一瞬だけ見れば、きっとカラー写真であると勘違いしてしまうかもしれない。それぐらい、切なくも甘い色を湛えたモノクロームの写真は、エンジュにとってはかけがえのないものになっていた。
 硝子ごしに指で弾く。
 魂を抜かれた瞬間が、まるでリバイバルされている永遠の名画のように繰り返しフレッシュな瞬間に蘇ってきた。
 17歳…。
 子供だったかもしれないけれど、恋には大人以上に純粋で、真剣だった。


 あの出逢いは正に桜の花がこの街に訪れた時だった。
 新学期特有の緊張と惰性から抜けだし、エンジュは近くの公園まで足を伸ばした。
 現実から逃避出来たような、清々しい心地良さがある。心も躰も伸び伸びしていて、本当に気持ちが良い。
 学校が嫌いな訳ではなかった。友達もいるし、生活自体も上手くいっていると思う。
 だが時々、篭の中で飼われ、外の世界を知らない鳥のような気分になり、息苦しくなる。
 フルカラーが良く似合うデジタルな時代に生きているはずなのに、何故だかモノクロームの味気なさを感じる。置いてけぼりを食った感じだ。
 色づくようなときめきなど、エンジュが住む世界とは縁遠い、別世界の出来事のように思えた。
 エンジュは公園を歩きながら、生きるのに必要な酸素を一生懸命かき集める。木の下で深呼吸をすると、たっぷりと集めることが出来るような気がした。
 いつも眺め、話し掛ける桜の老木の前に立つ。公園の桜は盛りを過ぎているのに、いつもスローな自分のペースを保っている老木は、正にこの一年の最高の舞台を迎えていた。
 満開よりも散り際が美しい。
 刹那の生き方に似た、ドラマティックな瞬間が、花のひとときの生き様に凝縮されている。
 エンジュは一番素晴らしい瞬間をこの目に刻み付けた後、いつものように老木にしがみついた。
「…ねえ、素敵な瞬間を今年も見せてくれて有り難う。とっても綺麗よ。綺麗な人間よりもずっと…」
 ぴとりとしっかりと木の幹に躰を密着させ、エンジュは耳をざらついた皮に密着させた。
 桜の老木に宿った精の声を聴いているような気がする。目を閉じて集中すると、呼吸にも似た音が聞こえ、木が命の営みを行っていることを感じた。
 目を閉じていると言うのに、風の流れを感じる。
 ふと、風の流れが今までにない方向に変わったことを、エンジュは感じた。
 導かれるままに目を開けると、視界に広がる。明るくはにかんだ光のベールの向こうに目を凝らす。
 金色の見事な髪を揺らした誰かがいる。
 眩しさの余りに目を眇めた光の先には、ヘラクレスにも似た男がいた。
 だらし無いのに豊かな金色の髪をし、体躯はずば抜けて素晴らしい。
 桜の精が呼び付けた、闘いを掌る者に思える。
 エンジュは、光と桜が見せるイリュージョンの中で、何度も目を大きく見開いては、男を観察した。
 じっとこちらを見ている。
 動こうとすると、大きな手が、エンジュを制する仕草をした。
「すまねェが、このまま動かねェでくれねェか?」
 発された声は、野太いのに心の奥底まで訴えかけるような人間の深みを感じさせるもので、男にぴったりとはまりこんでいた。
「このまま?」
 言葉の本当の意味を余り取れずに、エンジュはきょとんと呟く。
「このままだ」
 男は、左右の親指と人差し指で長方形を造り、その中を真剣に見つめている。
 画家や写真家がよくやるあれだ。ファインダーやキャンバスの代わりなのだろう。無精髭が男を写真家らしく見せていた。
 良く見れば肩には無造作にかけられているのは、一眼レフカメラ。しかも、エンジュでも知っているライカだ。
 雰囲気でプロフェッショナルであることは理解できた。
「そのまま!」
 男が声をかけると、時間が営みを停止したような錯覚を感じる。
 シャッターを着る金属的な音が響くだけで、総ての音が休止する。
 エンジュが17で、たった一度しかない春を凝縮されたようだ。まるで時間がキューブブイヨンのようになった感じがした。
「オッケ、サンキュ」
 時間が流れ始めた。
 辺りの音が緩やかに耳に入ってくる。
 エンジュは春に命の営みの檜舞台を迎える桜から、そっと離れた。
 少し離れたところにいる男を、エンジュは直立不動で見つめる。
 緩やかに風と同じように自然に、男はエンジュに近づいてきた。
「撮らせてもらったモデル料金、その他の苦情は、こちらにな」
「あ…」
 強引に、四角い紙が手ににぎらされる。大きく武骨な手に、エンジュは総てを支配されているような気がした。
 手を離されて、その余韻に胸を激しく唸らせながら、エンジュは何かを手放すように掌を開く。
 そこには眩しいほど白い名刺があり、エンジュは目を細めて字面を追った。
 写真作家:レオナード-----と書かれている。ただそれだけ。連絡先すら書いていない。
 エンジュはシンプル過ぎる名刺に目をむきながら、奇妙なものを見るような視線を、レオナードに送った。
「この名前さえ解れば、後は連絡先なんか自ずから解るだろうからな」
 余りに強引過ぎる。
 チクチクとはりねずみのようにあごからはみ出ている無精ヒゲを、エンジュはねこそぎ取ってやりたいような衝動に駆られた。
 勝ち気な眼差しをレオナードに向ければ、眉を上げて益々面白おかしそうな顔をする。
 ふと、レオナードが持つ携帯電話が、似つかわしくない音を、騒音のように奏でた。
 この老木の前では似つかわしくない舌打ちをすると、レオナードは仕方がないとばかりに電話に出る。
 携帯電話でレオナードが話している間、放って帰ればいいのにも関わらず、エンジュは動けなかった。
 どうしてなのかが解らない。脚に根が生えたような状態だ。
 レオナードが電話を終えるまでの間、からかいを潜めた横顔をじっと伺う。野性味があるというのに、桜の王と見紛うほどの美しさを感じた。
 呆然と見つめる。
 肌が桜色に染まっているのにも気付かずに、ただ食い入るように見ていた。
 レオナードは厳しい顔をして携帯電話を閉じたが、エンジュを見る時には、再び茶目っ気のあるものに変わっていた。
「どうやら、タイムリミットのようだ」
 エンジュの心臓が切ないベクトルに動き、萎縮する。胸の奥深い所が痛い。
「また、きっと桜の精が逢わせてくれる。きっとな…」
 レオナードと知り合えてからのほんの僅かな時間の流れで、初めて艶のある微笑みが瞳に映し出される。
 優しい艶は、桜が纏う雰囲気にとてもよく似ていた。
「またなァ」
 レオナードはふっと唇にも笑みを浮かべた後、広い背中をエンジュに向けて、去っていく。その姿は光の国へと向かうようにすら見える。
 手を大きく空に向かって上げる姿は、光を弾いて、桜の王のようだった----
 エンジュはただそれを魂に焼き付ける。
 


 写真作家レオナード-----エンジュはそれだけを頼りに本屋の芸術コーナーを回った。
 全く簡単に見つけることが出来たので、正直言って驚いた。
 写真物語と題された数々の写真集を出版しており、どれも光と影を小さな空間に表現しきっている。光の気持ちを知っているかのような、魔法のような瞬間が捕らえられていた。
 どの写真も、エンジュの心の清らかな部分に訴えかけ、震える指でページをめくる。かさりとした紙の擦れる音は、聖なる部分に語りかけるようだ。
 お小遣いでは総ての写真集を一気に買い集めるわけにはいかず、エンジュは少しずつ貯めては買い集めた。
 総ての本を集めて、冊数分の感動を貰ったら、その時はレオナードにコンタクトを取ってみよう----エンジュの密やかな野望が動き出す。
 そして-----買い集めた頃には、もう再び同じ季節が巡ってきた。


 刹那の花の季節、レオナードに逢えるような気がして、エンジュは出逢った桜の樹に幾度となく通った。
 産まれる前から営みを続けてきた命の息吹に、何度も抱き付き、自然の素晴らしさを感じた。
「いつ…逢えるのかな…。私の勘は間違っていたのかな…」
 エンジュはひとりごち、桜も樹に答えを求めるかのようにそっと目を閉じ、神経を研ぎ澄ませる。
 土を蹴る音が聞こえた。
「-----すまねェが、このまま動かねェでくれねェか?」
 何度も思い出したあの瞬間が時空を飛び越えて戻ってくる。
 心の中で何度も繰り返された瞬間が、今、現実のものとなって、エンジュの前に発露する。
 シャッターが切る音が消えるまで、エンジュはじっと桜の樹を抱きしめ続けた。大きな愛を抱きしめている気分だった。
 シャッターの音が止み、辺りが静まりかえる。聞こえるのは東風の吹き抜ける音と土を蹴る逞しい音だけ。
 エンジュはそっと目を開けて、近付く影を追った。
 レオナード----去年よりも更に精悍になっているように思える。
 不意に激しい音を立てて桜の花弁が舞い落ちていく。
 それはまるで、レオナードにまっすぐと行く手を教えているようにも見えた。
 レオナードは真っ直ぐとやってくる。その手には、剣のように一冊の本が抱えられている。
「------ここに来ると逢えると思っていたぜェ。モデルに許可を貰いに来た」
 小癪な笑みを浮かべながら、レオナードはエンジュに接近すると、あの時と同じように手を取る。今度は大きな写真集を置かれ、エンジュはそれを直ぐに捕まえた。
 鼓動を整えようとしても出来ないまま、慎重にページをめくり始める。
 見開きのページを見るなり、声にならない声が喉の奥底から発せられた。
「これ…」
 一番良いショットを収める見開きのページには、去年の春エンジュが桜の樹に抱き付いた様子が、モノクロームで掲載されていた。
 確かにモノクロームのはずなのに、総天然色の美しさで蘇ってくる。
 胸を切り裂くような美しさが写真に閉じこめられて、エンジュは感銘の余りに瞳から泪を零していた。
「…やだ、どうして…。綺麗にとって貰って嬉しいはずなのに、どうして涙が出るんだろう…」
 エンジュは涙が零れるのを何とかその腕で拭い去り、一生懸命笑うように努力をする。だが、上手く笑えない。
「なァ、モデルの報酬を持って来たぜェ」
「何…?」
「俺様」
 レオナードは意味深い笑みを湛えると、ふわりとエンジュを抱きしめてきた。
 強く、そしてもう話して欲しくないほどの熱い抱擁。
 ずっと、これを待っていたのかもしれない。
 エンジュは求めるように、貪欲にレオナードに抱き付いた。
「-----有り難う、ずっと欲しかったの」
 桜の花弁が祝福をするように舞い上がる。
 薄いピンクの花吹雪になって、内気なティーンエイジャーのように躊躇いがちに演出する。
 キスは春の味がした-----


 大切な想いがこもったモノクロームの写真をエンジュはもう一度弾く。
 レオナードの生み出す写真物語のモノクロームな世界で、エンジュは何度もかけがえのない瞬間を閉じこめて貰っている。
 レオナードの最新刊「聖天使日和」は、ふたりの刺激のある毎日が凝縮されて写真というものに表現されている。
「おい、エンジュ! 出版パーティに遅れるぜェ! 今日は俺たちの婚約披露でもあるんだからなァ!」
「はあい、待って」
 鈍色の淡い光の中、エンジュは愛するひとの声に向かって走っていく。

 桜の花よ。
 この春、私たちは結婚します----
  
コメント

少し違ったものを書いてみたかったのです。
レオエン編




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