*未来時間*

前編


 ヒポクラテスの誓詞を立てて、大地は医学の道を進んだ。

 かなではヴァイオリニストとしての道を歩み、今やその美貌と実力で、マスコミからかなりの注目を浴びている。

 当の本人は名声などには余り頓着がないようなのだが。

 ウィーンの音楽コンクールで、日野香穂子以来の優勝を果たし、大河ドラマのオープニングの演奏までもを担当している。

 着実にヴァイオリニストとしてのキャリアを積んでいる。

 大地にはそれが誇らしくもあるが、同時に切なくもあった。

 自分はまだまだしがない臨床研修医だ。

 これからキャリアを積んでいかなければならない。

 一人前になるにはまだまだなのだ。

 かなでは既にかなりのキャリアを積んでいて、一人前になりつつある。

 その上、臨床研修医は、かなりのハードワークで、自由時間が余り取れない。

 しかもかなでもかなり忙しいことから、明らかにすれ違いの生活が続いていた。

 逢いたいのに逢えないのが、かなりもどかしかった。

 同時に不安にもなる。

 かなでがもし誰か他に好きになる男が出て来たらどうしようかなんて、そんな下らないことまでも考えてしまう始末だった。

 大地は今日、新しい患者を担当することになった。

 膠原病の一種である悪性リウマチの患者だ。

 関節の骨が変形し、足を動かすのも困難なようだ。

 薬と言ってもステロイドぐらいしか処方してやるこてが出来ない。

 痛みに苦しんでいる患者に、ほんのひとときしか痛みを取ってやることが出来ないことに、もどかしさを感じていた。

 どうしてやって良いのかが分からない。

 医師としての無力を感じずにはいられなかった。

 長い長い勤務が終わったタイミングで、かなでから携帯電話に着信があった。

「大地です。ひなちゃん、久し振り」

 大地は声を聞いただけで癒されるのを感じながら、思わず笑顔を零した。

「…大地先輩、かなでです。私も時間が出来たんですが、これから大地先輩のところに遊びに行っても構いませんか?」

「ああ、構わないよ。俺もこれから非番だから」

 かなでに逢える。

 それだけでなんと嬉しいのだろうかと思った。

「今から家に戻るよ、うん、じゃあ後で」

 かなでに逢える。何故だか、とっておきのプレゼントを貰ったような気分になった。

 大地が自宅マンションにたどり着くタイミングで、色々と荷物を持ったかなでがやってきた。

「ひなちゃん!」

「おかえりなさい、大地先輩」

 かなではニコニコと笑いながら、買い物袋を掲げた。

「何か美味しいものを作りますね」

「有り難う」

 かなでとふたりで手を繋いでマンションに入る。

 付き合い始めてからもうすぐ7年。

 かなでももうすぐ24歳なのだ。

 高校生の頃と変わらない可愛らしさは、ずっと持ち合わせているのだが。

「大地先輩が大好きな肉じゃがと、カキフライを作りますね」

「有り難う。ひなちゃん、指先は気をつけるんだよ」

「有り難う」

 かなでは幸せそうに頷く。

 かなでの笑顔を見ていると、それだけで癒される気分だ。

 自分には、治せない病気があるのだと思う気持ちが、幾分か和らいだ。

 かなでが料理をしてくれている間、言葉に甘えて仮眠を取ることにした。

 そうするとかなりスッキリする。

 やはり医師の仕事は、ハードワークだと思わずにはいられない。

 それでも医師は天職だと思っている。

 これ以上ないほどにだ。

「大地先輩、ご飯が出来ましたよ」

「…あ、うん…有り難う…」

 かなでの言葉に、大地はのんびりと起き出す。

 かなでは、高校生の頃と同じように、明るく素直な笑顔を大地に向けてくれる。

 この笑顔を見れば、高校時代の純粋な恋心を思い出すことが出来た。

 こうしてかなでと同じ食卓を囲んでいると、ホッとする。

「大地先輩、しっかり食べて元気になりましょうね! 私、当分横浜から動かないので、こうしてご飯を作りにきますよ。ご迷惑ではなければ」

 かなでがそばにいてくれる。

 これだけでも大地にとっては大きなことだ。

「最近、逢えなかったから嬉しいよ、ひなちゃん」

 かなでも喜んでくれているのが何よりも嬉しかった。

「私もです。大地先輩に逢いたかったです。ウィーンにいる時も逢いたいなあって何度も思いましたよ」

 かなでは苦笑いを浮かべながら、真直ぐ大地を見つめてくる。

 こうして自分を求めてくれるかなでの存在が嬉しい。

 かなでがずっとそばにいてくれたら、きっと幸せで充実な時間を過ごすことが出来るのにと、大地は思わずにはいられなかった。

 かなでは何処に行きたいとかは言わずに、ただそばにいてくれる。

 いつも大地の気持ちを感じ取ってくれるのだ。

 かなでと他愛ない話をしながら食事を続ける。

 ヴァイオリンのコンサートツアーのことなどを楽しく聞きながら、大地は何処か寂しくなるのを感じた。

 自分で選んだ道とはいえ、アンサンブルメンバーで音楽以外の仕事に就いたのは大地だけだから。

 何故か疎外感のようなものを緩やかに感じる。

 かなでがキラキラと輝きながら、自分の仕事の話をしているのを見ると、眩しくてしょうがなかった。

 多くのひとがかなでを必要として癒されているのも直ぐに分かる。

 それに対して自分はどうなのだろかと、大地は思わずにはいられない。

「ひなちゃん…」

「はい?」

 高校時代と何ら変わりなく笑顔で自分を受け入れてくれる恋人の存在が嬉しい。

 大地は華奢なかなでの躰を抱きすくめると、激しく唇を重ねる。

 かなでなら自分のやるせない気持ちを解ってくれる。

 かなでなら弱い部分も総て受け入れてくれる。

 それが解っているから、ついこうして甘えてしまう。

 泣きそうになるぐらいに依存していまう。

 大地はそのままかなでをフローリングに押し倒すと、愛の嵐に引き摺り込んだ。

 

 大地が闇を抱えている。

 かなではそばにいてそれを深く感じていた。

 大地とずっと逢えなかった間、かなでも寂しくてしょうがなかった。

 大地は臨床研修医で、今が一番大切で、大変な時期であることは、かなでが一番解っていた。

 だからこそ、大地には、どんな苦しみでも、頼って欲しい。

 自分が出来る限りのことはしてあげたい。

 愛するひとを癒してあげたかった。

 大地の心と躰の疲れを癒すために、かなでは大好物ばかりを作った。

 そして。

 こうして肌をしっかりと合わせることで、大地のやるせなさを解消したかった。

 さらりとした癖のある柔らかなブラウンの髪に指先を差し入れながら、かなでは大地と共に愛の世界へ舞い上がる。

 大地とずっと温もりを共有したかった。

 大地とずっとこうしたかった。

 海外を飛び回る日々で、祖国よりも何よりも大地が恋しかった。

 かなでは大地を受け入れ、激しく愛を交わしあった後、たゆたゆとした幸せの中で漂っていた。

「…ひなちゃん…」

 大地が艶のある甘い声で呟き、ギュッと抱き締めてくる。

「大地先輩、大好きです。私は先輩の何もかもが大好きなんです」

 かなでは幸せが声に滲むのを感じながら、大地に微笑んでみせた。

「…俺もひなちゃんを愛している。ひなちゃん以外には、もう誰も愛せないんじゃないかって思えるぐらいにね…」

 大地は華奢な躰を更にギュッと抱き寄せてくる。

「…いつもひなちゃんには癒されているよ…。本当に有り難う…」

「私こそ癒されていますよ…」

 かなでがにこりと笑うと、大地は激しく唇を重ねてきた。



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