*やさしい壁*

前編


 大学生になり、星奏学院とは違う大学に行ってしまった大好きなひとと、高校生のままの自分。

 住む世界が一気に変わってしまい、かなでは取り残された寂しい気分になる。

 共有していた世界が狭くなるにつれて、何だか切ない気分になる。

 以前からかなり大人びていて、頼りになる人ではあったけれど、更に大人になってしまった。

 子供の自分とかなりの違いがあり、それが今、密かな壁になってしまっている。

 学院で授業を受けて、オケ部で練習をし、また寮の防音室で練習をする。

 望んで飛び込んだヴァイオリン漬けの生活。

 その中で育んだ恋。

 ヴァイオリンも恋もどちらも同じぐらいに大切で、無くしたくはないものだ。

 かなでは、大事な恋がとても遠くなってきているような気がして、たまらなかった。

 自分がヴァイオリン中心の生活を送っている時に、大地はどうしているのだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えてしまう。

 大地が通っているのは名門の医学部で、地元横浜では、いや、全国的にも難病などの研究拠点であることで知られている。

 本当に世界が違う。

 それに今は忙しいからか、全く逢う事が出来ない。

 高校生の頃は定番だった、豆柴モモの散歩も、最近はご無沙汰になってしまっている。

「大地先輩、どうしているのかな」

 ポツリとつい切ない気分で呟いてしまう。

 逢いたい。

 本当に逢いたくてたまらない。

 大地に逢うだけでも、元気を沢山チャージすることが出来るのに。

 かなでは溜め息を吐きながら、物思いに耽った。

 

 楽譜を楽器店で買った帰り、かなでは少し喉がいがらっぽいのを感じた。

 最近、がむしゃらにヴァイオリンを頑張っているからか、休息を取るのを忘れてしまっていた。

 疲れが溜まって風邪を引いてしまったのかもしれない。

 自分の迂闊さを呪いながら、かなでは寮へと続く坂道を上がっていった。

「ひなちゃん!」

 弾むような声が聞こえて、かなでは思わず顔を上げた。

 すると綺麗なオレンジ色の夕陽に照らされた大地が、ゆっくりとこちらへやってきた。

 相変わらずの柔らかな笑顔だ。

 ほんのりと憎らしく、ほんのりと幸せな気分で、かなでは大地がやって来るのを待った。

 大地は出掛けるようだった。

「今、帰り?」

「はい、楽器店で新しい楽譜を仕入れてきました」

 かなでは声が少しガラガラするのを気にしながら、笑顔で大地に言った。

「ひなちゃん、風邪?」

 大地は心配そうに眉を寄せている。

「大丈夫ですよ。カッコントウでも飲めば、次の日にはケロリと治っていると思います」

「だったら良いけれど、余り無理はしないようにね。後から大変な事になってしまうからね」

「はい」

 大地はスッ心配そうに面細めた後、かなでの額に手を当てる。

 熱を測るのには定番の仕草なのに、胸の奥が切なくキュンと甘くなる。

 まるで甘夏みかんを食べたような甘酸っぱさがある。

「ひなちゃん、今なら少し時間あるんだけれど、君はどうかな? 俺はこれから出掛けるから三十分ぐらいしかないけれど、いつものところに行かないか?」

「はい! 喜んで」

 いつものところ。

 それはコーヒーショップ。

 カフェで飲むよりは安いので、大地が高校生の頃は、よくふたりで通ったものだ。

 デートの定番スポットだった。

「ひなちゃん、来週の土曜日に、みなとみらいホールでのコンサートのチケットが手に入ったんだけれど、一緒に行かないか? 大学のガイダンスだとかで、なかなか会えなかったから、そのお詫びも込めて」

「ホントですか!? ものすごく嬉しいです!」

 大地とクラシックコンサートデート。

 こんなにロマンティックで嬉しいデートはない。

 かなでは嬉しくて、ついにんまりと笑った。

「凄く嬉しいです! 楽しみです」

「うん。俺も久々にひなちゃんの笑顔が見られたから、とても嬉しいよ。ひなちゃんと一緒にいられる事もね」

 大地にウィンクをされて、ついドキドキしてしまう。

 大地のウィンクは魅惑的で、くらくらするぐらいにときめいてしまう。

 ナマウィンクはもう何度も受け止めているはずなのに、未だに慣れずに、ドキドキしてしまう。

 ふたりでコーヒーを飲んで、こうして色々と話しているだけで幸せ。

「ひなちゃん、来週までにしっかりと風邪は治しておいで。折角のコンサートが楽しめなくなるからね」

「はい。そうします。早目に寝なくちゃならないですね」

 かなでは、コンサートのためにもしっかりと風邪を治さなければならないとー強く思った。

 折角のデートなのだから。

「そろそろ時間だ」

 大地は時計を見ると立ち上がる。

「どこへ行くんですか?」

「大学の新歓コンパでね、いかなければならないんだよ」

「そうですか…」

 かなでの知らない世界に大地が向かうことが、妙に寂しい。

 大地には大地の世界があるのは解っているが、今までは余りにも共有していた部分が多かったから、かなでは哀しくなった。

 だがそれは自分のわがままだ。

 大地を困らせたくはない。

 かなではなるべく笑顔でいるように心掛けた。

 かなでも立ち上がり、コーヒーを飲んだ後片付けをする。

「ひなちゃん、引き止めてごめんね。もう少しだけ一緒にいたい。途中までだけど、一緒に行こうか」

「はい」

 大地はいつもよりもかなり強く手を握り締めてくれる。

 本当に離れたくないと言ってくれているような気がして、かなでは嬉しかった。

 元町中華街駅前の坂道で別れる。

「ひなちゃん、また電話する」

「はい、待っていますね」

 かなでは大地を見送った後、幸せなのに何とも表現し難い、甘くて切ない気分になる。まるで幼い頃に、遊園地から帰りに経験をした気持ちによく似ている。

 楽しい時間の後は、どうして不安定な幸せと切なさが湧いてくるのだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えていた。

 

 寮に帰ったものの、かなでは何も食べる気にはなれなくて、夕食も食べずに素早くお風呂に入って眠ることにした。

 頭がぼんやりして、躰も熱い。

 恐らくは風邪が酷くなっているのだろうと思った。

 葛根湯を飲み、温かくして眠ることにする。

 来週はクラシックコンサートがあるから、どうしても治したい。

 コンサートもとても楽しみではあるが、本当は大地と一緒に過ごせる時間のほうがもっと楽しみだった。

 かなではふと携帯電話を見る。

 コンパ中の大地からは、勿論、メールなどは届く筈もないのだ。

 かなでは熱で朦朧としながら、深く溜め息を吐いた。

 大地は綺麗で大人な女性と一緒にいるのだろうか。

 そう考えるだけで、涙が出る。熱のせいで情緒不安定になっているようだ。

 かなでは、大地が今直ぐ駆け付けてくれたら良いのに、などと切なく想いながら、布団を頭から被った。

 大好きだからこそ、気になるのだろう。

 かなではどうしてこんなに泣けてくるのか、苦しく思いながら、深く目を閉じた。

 

 大地はいつものように笑顔のポーカーフェースと、誰にでも分け隔てなく接することが出来る軟派な仮面を被って、コンパをそれなりには楽しんでいた。

 だが気にかかるのはかなでのことばかりだ。

 かなでが熱を出してはいないか、具合が悪くなってはいないか。

 そればかりが心配だ。

 つい携帯電話を手に取りそうになる。

 かなでに何もなければ良いのにと、思わずにはいられない。

「榊君、何か気になることがあるの?」

 妖艶な先輩に言われて、大地は「いいえ…」としか答えられない。

 先輩は甘くて紅い唇に、艶のある笑みを浮かべていた。



Top Next