後編
あれ程までに素晴らしい演奏を聴かせて貰ったから、それをヴァイオリンで返さなければならない。 香穂子は軽く深呼吸をして、演奏に集中する。 “ありがとう”の想いを込めて。 ふとパーティ会場を見ると、吉羅がやってきた小さな娘を抱き上げている。 そして、小日向かなではといえば、恐らくは恋人であろう榊大地と幸せそうに寄り添っている。 香穂子は、かつて恋をしていた高校生の頃に戻って、幸せな気分になる。 今も吉羅には熱烈に恋をしているのだが。 この会場にいる総ての人々が、幸せで温かな気持ちになれるように、香穂子はヴァイオリンを奏でた。 温かで優しい気持ちで、ヴァイオリンを奏でる。 なんて幸せな気分なのだろうかと、思わずにはいられなかった。 かなでは、日野香穂子のヴァイオリンを一生懸命に聴く。 なんて透明で温かな気持ちになれるのだろうか。 心が澄み渡って、温かなものが流れてくる。 日野香穂子のCDが、世界の妊婦のヒーリングに使われているのも頷けた。 なんて大きな愛が籠った音色を奏でることが出来るひとなのだろうか。 こんな風になりたい。 こんな音を奏でられるようになりたい。 かなでは強く思う。 日野香穂子の音色はひとを幸せにする力があると、かなでは思わずにはいられなかった。 大地と一緒にいると、特に幸せな気分になれる。 もっと近付いて、もっと幸せな気分になりたい。 日野香穂子の音色は、恋人たちの甘い気持ちを高めてくれる効果があるように思えた。 うっとりと音色を聞きながら、かなでは大地を見た。 大地は甘い笑みをフッと優しく浮かべると、かなでの手をしっかりと握り締めてくれた。 本当に幸せだ。 こんなに幸せな気分になれるなんて、まさに奇蹟の音色だと思った。 香穂子の演奏が終わる。 すると会場からは、幸せな溜め息があらゆる場所から漏れた。 拍手が鳴り響き、誰もが称賛している。 ふと理事長を見ると、日野香穂子によく似た小さな女の子を抱き上げていた。 ふたりには娘もいたのかと、驚いてしまった。 本当になんて理想的なのだろうかと、かなでは思わずにはいられなかった。 「凄く良かったですね、演奏。幸せな気分になれました」 「そうだね。日野香穂子さんの演奏は確かに素晴らしかったよ」 大地も頷く。 優しく温かな演奏の後は、衛藤桐也の演奏になる。 香穂子はといえばステージから下りて、吉羅に幸せそうに寄り添っていた。 理想的な家族というのは、あのようなふたりをいうのだろうと、かなでは思った。 衛藤桐也の演奏は、流石に素晴らしかった。 技術面はもちろんのことだが、演奏に切れがある。 月森蓮の完璧な月光のような演奏と双璧をなすことが、直ぐに納得出来た。 やはり学院は凄い。 王崎、月森、衛藤の三人の個性が異なる若手実力派を輩出するだけではなく、日野香穂子のような女性若手ヴァイオリニストの頂点に君臨する者、新進気鋭の作曲家である志水。 本当に音楽の人材には事欠かない。 素晴らしい人々だと、かなでは思わずにはいられなかった。 衛藤のヴァイオリンが終わり、歓談時間に入る。 「ひなちゃん、衛藤さんのヴァイオリンはずっと指先を見ていたね。律たちも同じで面白いかった」 「やはり物凄い技術ですよ、衛藤さんは」 「確かにね。それは俺も認めるよ」 大地は頷くと、かなでを見た。 「ひなちゃん、ご飯を取りに行こうか」 「はいっ!」 パーティに並べられた料理は本当に美味しそうで、かなでは皿に取る。 取りきられないところは、大地が取ってくれた。 「美味しいですね!」 かなでが幸せな気分で食べていると、大地は甘く目を細める。 「食べている時のひなちゃんは本当に可愛いなあ」 大地はまた癖のようにかなでの頭をわしゃわしゃと撫でて来た。 「大地先輩、私は小さな女の子じゃないですよ」 わざと拗ねてみると、大地は気にしないとばかりに笑う。 「ひなちゃん、ごめん、ごめん」 大地は微笑むと、かなでを優しく見つめてくれた。 「甘いものにしようかなあ、ケーキが美味しそう」 「俺はビターチョコレートのケーキとコーヒーにしようかな」 「じゃあ取りに行こうかな」 大地とふたりで手を繋いだままでケーキと飲み物を取りに行く。 すると理事長一家が楽しそうにケーキやチョコレートフォンデュを取っていた。 「このケーキも美味しいんだよ、あさひ。お父さんとシェアをしようか」 「うん!」 吉羅はかなり甘いデザートを取っている。完璧なクールさがある容姿とは裏腹に、甘いものが好きなようだ。 それがまたかなでたちを笑顔にさせた。 「あら、小日向さん、大地くん」 香穂子は明らかに大地を知っているようで笑顔で挨拶をしてくれた。 「お久し振りです香穂子さん」 大地は明らかに香穂子をかなり以前から知っているようだった。 「楽しんでねパーティ。ふたりを見ていると甘いデザートが更に甘くなるような気がするわ」 香穂子がくすくすと笑ったが、その言葉は理事長夫妻に返したいと、ふたりは思った。 甘いデザートを食べながら、かなでは本当に幸せな気分になる。 「ひなちゃん、有り難う。君がいたからこうしてここにいられる」 「こちらこそ、大地先輩がいたから、最後まで頑張ることが出来たんですよ」 かなではにっこりと微笑むと、大地をデザートよりも甘いまなざしで見つめた。 パーティは盛況のうちに終了した。 かなでたちアンサンブルメンバーは、理事長夫妻に呼ばれ、別室へと向かう。 「君達はとてもよく頑張ってくれた。そのご褒美を贈ろう」 理事長は、一人ずつに、小さな紙袋を差し出す。 中には横浜の高級宝飾店の箱が入っていた。 流石は経済界でも一目置かれている寵児なだけはある。 財政難であった学院を立て直し、今は利回り運用などでかなりの利益を出していると、噂で聞いていた。 「香穂子が君達に選んでくれた。全国大会優勝の刻印が刻まれている。君達にとって一生残るように」 こんな風にして貰えるなんて思ってもみなくて、かなでたちは嬉しくて息が出来ないぐらいだ。 「これからも頑張ってね」 「はい!」 誰もが高らかに返事をしたのは言うまでもなかった。 かなでは控え室で日野香穂子と着替えた後、別れの挨拶をする。 「小日向さん、素敵な演奏をどうもありがとう。とても感動しました。これからも頑張ってね」 「有り難うございます! 私こそ、日野さんの演奏には感動しました。いつかあなたのように温かな演奏が出来るようになりたいです」 かなでは感激する余りに泣きそうになりながら、笑顔で挨拶をした。 「あなたなら大丈夫。あなたを影からしっかりと支えてくれるひとがいますから。大地くんと仲良くね。離してはダメよ。私と暁彦さんのようにね」 香穂子の温かな笑顔に、いつかこうなりたいと思いながら、頷いた。 ごく自然に大地と一緒に帰宅する。 手を繋ぐことも随分と当たり前のことになってきた。 「プレゼント開けてみたくありませんか?」 「そうだね、開けてみたいね。ドトールにでも行こうか」 「はい」 大地とかなではくすりと笑いながら、走って元町通りのドトールに入った。 ふたりは大好きなコーヒーを頼んで、ドキドキしながらパッケージを開ける。 「わあ!」 かなでの箱にはプラチナで出来たヴァイオリンのペンダントに誕生石があしらわれ、大地の箱にはプラチナで出来たヴィオラのネクタイピンに誕生石があしらわれていた。 「ひなちゃん、ここにイニシャルと年が刻印されているよ」 2009 eternal summer k.k なんて素敵なプレゼントだろうかと思い、かなでは泣きそうになった。 「素敵なプレゼントです。想い出になります」 「うん、一生大切にしよう」 「はい」 かなでは泣き笑いの表情を浮かべながら頷いた。 「あのプレゼント、喜んでくれたでしょうね」 香穂子は車に揺られながら、幸せな気分で微笑む。 「そうだね」 吉羅は微笑みながら頷く。 「小日向さんと大地くんは、きっとお互いに生涯かけがえのない存在になるでしょうね…」 香穂子はしみじみと呟くと、お腹に手を宛てる。 「そうだね…。榊君は医師として人の躰を癒し、小日向君は音楽で人の心を癒す…。似合いのふたりではないのかね…」 「そうですね…」 香穂子は大地とかなでを思い浮かべる。幸せな気分でいられた夜だった。 |