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それは初恋のひとと同じぐらいに特別だと。 ならば、今日、履いているハイヒールは特別なのだろうか。 確かに特別だ。 大好きな大人の男性と釣り合うように、選んだハイヒール。 赤いのは背伸びをし過ぎている。 かといってピンクは、幼い色の象徴のように見える。 ならばと、考えて、淡いベージュのハイヒールを選んだ。 何もないシンプルな靴。 シンプルなデザインは、大人にみせてくれるような気がしたからだ。 ハイヒールに合う、シンプルなワンピースを選ぶ。 隣にいる、ずっと大人の男性と釣り合えるように、細かいところまで、気を遣った。 今日はデートでもなんでもない。 ただ大好きなひとが、勉強のためにと、コンサートに招待してくれるだけ。 小さいが、とても上質なコンサート。 邪なことなんて、考えてはいけないような雰囲気すらあるのだ。 これは勉強だ。デートなんかじゃない。 そんなことは十二分に分かっているつもりなのに、ついつい期待をしてしまう。 吉羅の恋愛対象になるはずもないというのに。 香穂子は、淡い期待をついつい抱いてしまう自分に嫌気がさす。 胸が苦しくてしょうがなかった。 香穂子にとって一番の憧れ。 身近な異性であるのに届かない。 それが、吉羅。 近くて遠い。星のようなものだと思った。 約束の日、香穂子は唇がふっくら見える、リップグロスを塗った。 グロスぐらいならば、あからさまに背伸びをし過ぎているとは、思えない。 香穂子は、心をときめきでいっぱいにして、笑顔を浮かべた。 こうすると魅力的に見えるような気がした。 吉羅との待ち合わせ場所に向かう。 ハイヒールなんて、馴れないものをはくから、とても歩き難い。 香穂子はぎこちなく歩きながら、背伸びをしてハイヒールを履いたのに、これでは逆効果だと思った。 なんてことだと思う。 こんな奇妙な歩き方をしたら、吉羅と余計に釣り合えない。 釣り合いたい。 そんなことを考える自分がいる。 だが、そのようなことが、とても難しいことぐらい、誰よりも分かっているつもりだった。 待ち合わせ場所に行くと、程なくして吉羅が車でやってきた。 吉羅の車を見るだけで、香穂子は胸を甘酸っぱくさせる。 吉羅はいつものように車から降りて、スマートにエスコートをしてくれる。 香穂子の、板につかない姿を見るなり、吉羅は一瞬、眉を上げた。 一瞬にして、似合わないと判定したのだろう。 吉羅は大人であるがゆえに、口にはしないが、そういうことなのだろう。 「お待たせしたね」 「誘って下さいまして、有り難うございます」 香穂子はなるべく冷静に言うと、吉羅に誘われるように、助手席に座った。 なるべく、何でもないように、さりげない対応を心掛けたが、つい身体をカチコチにさせた。 吉羅はそのままステアリングを握り締めると、目的地であるコンサートホールへと走らせた。 「今日のコンサートは、君にはかなりの勉強になると思う。しっかりと学びたまえ。良い機会だからね」 「はい、有り難うございます」 ぎこちない格好をしたとしても、吉羅は何も言わない。吉羅にとっては、“何でもないこと”だからだろう。 それが分かっているからこそ、香穂子は複雑な気持ちになった。 いつもとは違う、妙な緊張感に、香穂子は表情を固くした。 そうしか出来ない。 上手く表情を出せずに、石の塊のようになってしまった。 車は、コンサートホールの駐車場に停まる。 香穂子のように、ヴァイオリニストを志す者にとっては、憧れのコンサートホールだ。 いつか、ここで演奏をしたいと、思わずにはいられなかった。 車を降り、コンサートホールまで歩く。 吉羅は相変わらず、大きなストライドで早く歩く。 それに対して、履き馴れないハイヒールを履く香穂子は、いつも以上に歩くのが遅くなり、なかなか追い付けない。 呆れたように吉羅が振り返る。 「日野くん、君はもう少し早く歩くことが出来ないのかね?」 「ごめんなさい……。理事長、早く歩いて頂いて大丈夫です」 「チケットは私が持っているんだ。そういうわけにはいかないだろう」 吉羅はうんざりするように言うと、大きな溜め息を吐いた。 吉羅は明らかに苛々している。 香穂子は泣きたい気分だった。 本当は、吉羅とバランスが取れるようにと、思いきり背伸びをしただけだったのに、それが逆効果になってしまった。 それ以上に、呆れられてしまったのだ。 こんなスタイルで来なければ良かった。 香穂子は自分がつくづくバカだと思った。 吉羅はもう一度溜め息を吐く。 完全に怒らせてしまったのだろう。 これはもうしょうがない。 香穂子は諦めて、とぼとぼと歩いた。 吉羅がこちらにやってくる。 怒りの形相だ。 香穂子は、背伸びをしたがゆえにぶち壊してしまった自分に、ほとほと愛想を尽かしてしまった。 吉羅がやって来るなり、いきなり強く手を掴まれる。 まさかこのようなことが起こるとは思わなくて、香穂子は驚いて目を見開いた。 こんなことが起こるなんて、想像出来ない。 吉羅は香穂子が歩きやすいように手をしっかりと結ぶと、何も言わずに歩き始めた。 「このような場に、そんな靴で来るものじゃない」 吉羅はピシャリと言い放つと、まるで戒めるように、香穂子の手を思いきり握りしめた。 その強さに、香穂子は思わず唇を噛み締めた。 吉羅が怖い。 怖いのに、拒めない。 そして、離したくもない。 なんて複雑怪奇な感情なのだろうか。 「急ごう。コンサートは、私たちを待ってはくれないからね」 「はい」 吉羅に言われて、香穂子は渋々頷いた。 ホールに入っても、吉羅はしっかりと手を握りしめたままで、席まで向かう。 吉羅にエスコートされているようで、鼓動が激しく鳴り響く。 吉羅の手から温もりがしっかりと伝わり、香穂子は息をしても上手くいかないぐらいに、興奮と緊張のなかにいた。 座席に腰かけると、吉羅の手が離された。 吉羅の温もりが消え去り、香穂子は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。 胸がかき乱される。 香穂子は頬をほんのりと赤く染めながら、ちらりと吉羅を見た。 吉羅の表情は、全く変わらなかった。 香穂子のことなど、全く眼中にないのだろう。 香穂子にはそれが切なかった。 |