*はじめてのハイヒール*


 ハイヒールなんて履かなければ良かった。

 こんな背伸びなんて、しなければ良かった。

 これでは、ただのお荷物だ。

 香穂子は泣きそうになりながら、後悔していた。

 今は、ヴァイオリンの勉強をしに来ているのだ。

 それなのに、吉羅の注意を引くことばかりを考えてしまう。

 本当にどうしようもないと、香穂子は思わずにはいられなかった。

 ヴァイオリンに集中をしよう。

 そうしなければ、吉羅にここに連れてきて貰った意味は、全くなくなるのだから。

 それだけは嫌だった。

 折角、素晴らしい機会を用意してくれたのだから、それに応えなければならない。

 香穂子は、ステージから吸収することだけに集中する。

 そこには自分しかいない。

 自分とステージしかない。

 そう思い込んで、集中することにした。

 ステージは素晴らしかった。

 見ているだけで、勉強になる。

 音を生で聴くのは勿論だが、指の動きもじっくりと見つめた。

 ポジションを掴む動きが、特に参考になる。

 香穂子は神経を集中させながら、ヴァイオリンに集中した。

 こんな機会は本当にまたとないのだから。

 ゆっくりと音を味わうのは、もう少しヴァイオリンが上手になってからで良い。

 今は、もっともっと、ヴァイオリンを上手くなる必要がある。

 まだまだ仲間たちには追い付いてはいないのだから。

 香穂子は、どのような些細なことでも良いから、しっかりと吸収したかった。

 もっともっと上手くなりたい。

 ただその思いに集中していた。

 

 良質な音楽と技術にたっぷりと触れて、香穂子はしっかりと堪能し、勉強することが出来た。

「どうだったかな、しっかりと学ぶことが出来たかね?」

 吉羅に声を掛けられて、香穂子はようやく我にかえった。

「……理事長」

 吉羅が隣にいることすら意識に置かずに、コンサートに集中していたことに、香穂子は驚いていた。

 あんなにも吉羅の存在ばかりを意識していたのに、今は全くだった。

 自分でも苦笑いするほどの集中力だった。

 吉羅を自分の意識から何とか追い出して、ようやく得られた集中力なのだ。

「しっかり勉強することが出来ました。有り難うございます、理事長」

 香穂子は深々と頭を下げると、吉羅を見た。

 吉羅は薄く魅力的に笑っている。

 また、意識を吉羅に乗っ取られてしまう。

 鼓動が激しくなり、吉羅を激しく意識せずにはいられなかった。

「今日のことをしっかりと活かします」

「ああ。そうしたまえ」

 吉羅はフッと柔らかく微笑むと、席から立ち上がった。

「さあ、出ようか」

「はい、あっ……!」

 ヴァイオリンに集中し過ぎていたからか、香穂子はハイヒールを履いていたことを、すっかり忘れてしまっていた。

 慌てていつもの調子で立ち上がろうとしたものだから、香穂子は足首を捻ってしまった。

 痛みが足首に走り抜け、香穂子は顔をしかめて、足にテヲやった。

「……捻ったのかね?」

「ハイヒールを履いていたのを、すっかり忘れていて……」

 絶対に吉羅に怒られる。香穂子はすっかり凹んでしまい、溜め息を吐いた。

 足首が痛みでジンジンと痛み、吉羅を見る目も涙目になる。

 吉羅をまともに見られない。

 香穂子が項垂れていると、いきなり腰に腕を回された。

 いきなり過ぎる密着に、香穂子は、鼓動を激しく乱す。

 香穂子が酸欠の金魚のように口をパクパクと開けていると、吉羅にいきなり抱き上げられた。

「理事長!」

「こうしなければ、君は歩けないだろう?無理をするんじゃない」

「恥ずかしいです……」

「恥ずかしいなんて、言っている場合ではないだろう。君は……」

「ですが、理事長にご迷惑をかけてしまいます!」

「……君が歩けずに、ひょこひょこしているよりは、よほど良いよ」

「ですが……!」

「黙りなさい。君が喚くほうが恥ずかしい」

 ピシャリと言われて、香穂子は口をピタリと閉じた。

 吉羅は不機嫌そうに無言のままで、駐車場まで歩いていく。

 人々に見られてしまい、かなり目立つが、吉羅はそのことはあまり気にしてはいないようだった。

「吉羅理事長、歩けます!だから、下ろして下さい」

「良いから黙っていなさい」

 吉羅は話にならないとばかりに、ピシャリと香穂子に言い放った。

 結局、吉羅はそのまま駐車場まで歩き、香穂子を車に乗せてくれた。

 このまま家に送ってくれるのだろう。

 香穂子は泣きそうになる。

 吉羅と釣り合いたくて、吉羅と堂々と一緒にいたくて、ハイヒールを履いたのに、結局は、逆効果にしかならなかった。

 それが切ないぐらいに哀しい。

 ふと、車窓を眺めていると、自宅とは違う方向に車が走っているのに、香穂子は気付いた。

「理事長、どちらに向かっているのですか?」

「その足をなんとかしなければならないだろう?応急手当をするために向かっている。後、そのハイヒールでは、歩けないだろう。代わりの履き物を用意する」

 吉羅は淡々と話すが、それが凍えるほどの冷たさを助長させている。

 香穂子は心のなかで大きな溜め息を吐いた。

「日野くん、君の靴のサイズは?」

「に、23センチです」

「分かった」

 吉羅は車をショッピングモールの駐車場に入れる。

「君はここで待っていなさい。直ぐに戻ってくる」

「はい」

 香穂子は素直に返事をすると、車のなかでちょこんと座って待つことにした。

 夜の駐車場で待つのは、余り良い気分にはならない。しかも、失敗をした後となると余計だ。

 香穂子は何度となく深々と溜め息を吐いた。

 かなり長い時間待っているような気がしていたのに、実際にはそれほどでもなかった。

 颯爽と、吉羅が戻ってきた。

「日野くん、足を見せなさい」

 ここで逆らってもしょうがない。香穂子は捻挫をした左足を差し出す。

 すると吉羅は触診をする。

 恥ずかしくて、どうかしてしまいそうだった。

「ここが痛いのだね?」

「はい」

 吉羅はは頷くと患部に湿布をし、包帯とサポーターで固定してくれる。

 然り気無い優しさに、香穂子は胸をいっぱいにした。

 このひとが好きだ。

 そう強く感じずにはいられなかった。

「……あ、有り難うございます……」

「無理はするものじゃない。日野くん」

「……はい」

 まるで背伸びをするなんて言われているようで、香穂子は切なくてたまらなかった。



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