*はじめてのハイヒール*


「その足首でハイヒールは歩きにくいだろう?」

 吉羅は手当てを終えて、冷たい眼差しを香穂子の足首に向けた。

 確かにほんのりと腫れ上がった足首に痛みが滲んで、ハイヒールどころではなかった。

「……意気がって、こんなものを履いてしまったからですね。反省しています」

 香穂子はすっかり意気消沈してしまった。

「これなら履けるだろう。とりあえずは、この靴を履きたまえ」

 吉羅は、バレエシューズの形をした靴を香穂子に差し出してくれた。

 ヒールが全くないものだから、歩くぐらいならば、大丈夫そうだ。

 香穂子はホッとするのと同時に、重々しい気持ちになった。

「有り難うございます、理事長。助かります。ハイヒールは、もっと練習をしてから、慣れてから履くべきでしたね……」

「そうだね。少なくとも、今日、履いてくるものではなかったね」

 吉羅はキッパリと言いきると、冷たい眼差しを香穂子の足首に向けた。

 呆れられるのならば、まだましなのかもしれない。

 問題は、それ以上の軽蔑という文字があるような気がした。

 自分が悪いのだから、誰も恨むことなんて出来ない。

 だからこそ、余計に重かった。

 香穂子は暗い気持ちで俯くことしか出来ない。

 こんなこと、鬱陶しいことこのうえないと、自分でも思わずにはいられなかった。

 車が静かに動き出す。

 コンサート自体は本当に素晴らしくて、色々と勉強になった。

 だが、ハイヒールを履いてきたことで、すべてをぶち壊しにしてしまったのだ。

 自分の迂闊さに、香穂子は臍を噛んだ。

「……吉羅理事長、今日は申し訳ありませんでした。折角、このような機会を下さったというのに……」

「余り気にしないように。起こったことは、無かったけとには出来ないのだからね。だからこそ、くよくよしていても、しょうがないのではないかね」

 吉羅はドライに言うと、ステアリングを切る。

 冷静に淡々と話せるのは、吉羅が老成しているからだと、香穂子は思った。

 まだまだ追い付けない。

 追い付けないどころか、一緒に歩くことすらままならないのかもしれない。

 香穂子はそれが悔しくて、泣きそうになった。

 こんなにも吉羅とは差があるなんて、思ってもみなかった。

 香穂子は、切ない気持ちを抱きながら、ただ俯いている。

 いつもならば、ドライブを心から楽しむのだが、今日はそんな気持ちには、到底、なれるはずはなかった。

 車のスピードが落ちてくる。

 きっと間もなく自宅 なのだろう。確認するように窓の外を見ると、どこか違う場所だった。

 香穂子が戸惑っていると、吉羅が口を開く。

「君にはペナルティを払って貰わなくてはね」

「ペナルティですか?」

 香穂子は恐る恐る吉羅に訊いてみる。

「私と夕食を取ること。これが君へのペナルティだ」

 香穂子は身体から力を抜く。

 まさか、こんなに嬉しいペナルティが他にあるのだろうかと、思ったほどだ。

「はい。是非、ご一緒させて下さい!」

 吉羅は僅かに口角を上げる。怒っていないことが、嬉しかった。

 車は、小さな隠れ家のようなレストランの駐車場に入る。

 ヨーロッパの家庭料理が食べられるレストランのようで、香穂子はホッとした。

 レストランの雰囲気も、アットホームで良い。

 ここならば、堅苦しくハイヒールを履かなくても、大丈夫だ。

 吉羅お勧めのタンシチューのディナーセットを注文する。

「ここは昔から気に入りの場所でね。肩をこらないから気に入っている」

「私もここの雰囲気が好きです」

「それは良かった」

 吉羅はフッと微笑んだあと、香穂子をじっと見つめてきた。

「ヴァイオリンの演奏に、ハイヒールは必要じゃない。むしろ、ないほうが良い。気品がある履き物は、なにもハイヒールだけではない。私は、ハイヒールよりも、身の丈にあったものが良いと、思うけれどね」

 吉羅はやんわりと耳が痛いところを突いてくる。

 身の丈。

 確かに、ハイヒールは身の丈ではない。

「……そうですね」

 香穂子は思わず唇を噛んで俯いた。

「合うものをきちんと着こなすのが、私は素敵だと思う。合う、合わないは、ひとにとっては、まちまちだからね」

「そうですね……。背伸びをせずにします。ハイヒールはもう少し大人の女性になったらにします」

 香穂子は、しょうがないと思い、素直に認める。今日のていたらくを考えると、言われてもしょうがないと思った。

「ハイヒールはね、決して大人の象徴ではないことを、覚えておきたまえ」

 吉羅にピシャリと言われて、香穂子は目が覚める。

「ハイヒールや見た目だけで判断される訳ではないから、覚えておきたまえ」

「はい」

 香穂子は覚る。

 見た目ばかりを気にし過ぎてしまい、結局は、繕うことばかりを考えてしまっていた。

 そんな小手先のことでは、目の前のひとはダメなのだと、香穂子は改めて思い知らされた。

 結局、かえって迷惑をかけてしまうことになったのだから。

 香穂子は溜め息を吐くと、がっかりとした気分になった。自分がやったことは、全く効かなかったことになる。

「さあ、食べなさい。美味しそうに食べている君のほうが、私には好ましいからね」

「はい」

 吉羅が優しい薄い笑みを浮かべてくれ、香穂子は、ようやくリラックスして、食事をすることが出来た。

 香穂子がいつも通りに食べ始めると、吉羅は表情を和らげた。

 一瞬だけ垣間見られる魅惑的な表情に、香穂子はついうっとりと見つめてしまう。

 ようやく落ち着いて食事が出来る。

 香穂子はニコニコと笑いながら、食事をすすめた。

 いつも吉羅と一緒に食事をする以上に、よく話して、楽しむ。

 今日のコンサートの勉強成果を熱く語ると、吉羅はそれを熱心に聞いてくれた。

 捻挫の痛みを忘れてしまうぐらいに、楽しいひとときだった。

 食事の帰り、香穂子はいつもよりも楽しい気分で車に乗ることが出来た。

 やはり、無理はしないほうが良いのだ。

 今回はそれを心から学ぶことが出来た。

「明日も足首が痛いようなら、ちゃんと病院に行きなさい」

「はい。有り難うございます」

 車が静かに停まる。

 香穂子は家に着いたと思い、周りを見渡した。

 するとそこは公園だった。

「ペナルティの追加だ」

「……え……?」

 吉羅の言葉に驚いていると、そのまま抱き締められ、触れるだけのキスをされる。

 甘いペナルティに、香穂子は鼓動を高鳴らせた。




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