*一緒に上がりたい*


 吉羅には何でも教えて貰った。

 高校生の頃に出会ってからこれまで、大人の階段を昇るためのエスコートをしてくれた。

 それもいつかは終わる。

 そんな危惧ばかりが、香穂子の心を覆い尽くしてゆく。

 最近では、その切なさでいっぱいになる。

 いつか、吉羅に見限られるのではないかと、そんな不安に、香穂子は苦々しい想いでいっぱいになっている。

 正直、息苦しい。

 吉羅に追い付きたくて、いつもその後に着いて行こうと、必死になっている。

 だが、いつまで経っても追いつくことは出来ない。

 どう足掻いても無理なのだろうか。

 吉羅からは教えて貰ってばかりだった。

 先ずは大人の女性としてのマナーから始まり、気配りの方法、音楽業界のこと、セレブリティな人々と交流と人脈、世の中のこと、世界のこと、そして、人を愛すること。更には愛でられるということ。

 何もかも、吉羅に教え込まれて、今の香穂子がある。

 どれも一方的ではなく、香穂子から望んだこと。

 吉羅は、あくまで香穂子を育て、見守る姿勢を崩さない。

 それ以上はないのだ。

 だからこそ苦しいのだ。

 いつか見守ることに飽きて、他の子を育てようとしないかと。

 そして、誰かと結ばれたりはしないかと。

 それだけを危惧してしまう。

 大学生になり、もうすぐ二十歳になる。

 それなのに吉羅の扱いは全く変わらない。

 そして、今夜、勉強のために、吉羅にヴァイオリンコンサートに招待して貰った。

 それには、月森が特別参加しているのだ。

 二日間の公演のうち、もう一日は個別にもチケットを入手している。

 だが、吉羅の取ってくれたチケットのほうが、当然、良い席だった。

 学院の高等部で待ち合わせ、そこに行くと、高等部の女生徒がいた。

 吉羅と親しそうに話をしている様子を見ながら、この子が、新しく吉羅が“育てる生徒”なのだと知った。

 可愛らしく、とてもキラキラしている。

 当然のことのように吉羅と親しく話し、香穂子が戸惑っている間に、助手席に乗ってしまった。

 いよいよ、吉羅の興味は別に移ったのだ。

 ふたりの様子を見ていると、香穂子はそれを思い知らされる。

 なんて切なくて重い事実なのだろうか。

 もうすぐ吉羅に見限られる。

 いや、既に見限られているかもしれない。

 会場に着くと、衛藤の姿が見えた。

 月森と同じようにウィーンに留学が決まっているのだ。

 衛藤の姿を見て、香穂子はホッとした。

 イガイガとした心で自分自身を余計に痛めつけてしまうような感情が、少しだけ緩和される。

「衛藤くん!」

「香穂子さん。蓮さんがどれだけ成長したか、聴きたくてね。コンサートが終わったら、楽屋を訪ねるつもり。香穂子さんたちも、行こう」

 新進気鋭のソリストに会えるということで、女生徒は飛び上がって喜んでいる。

 久々に仲間に逢えるのが香穂子も嬉しくて、つい微笑んだ。

「もうすぐ開演時間だ。急ぎなさい」

「はい」

 吉羅はいつも以上にクールに言うと、足早にホールに入ってゆく。

 その姿を見て、衛藤はくすりと笑った。

「どうしたの衛藤くん」

「何でもない。香穂子さん、行こう」

「うん」

 衛藤に促されてホールに向かう。

 席順は、衛藤、香穂子、吉羅、女生徒で、巧みだと思った。

 香穂子はいつも以上に緊張をしながら、席に腰かける。

 まだ、横に衛藤がいてくれることが、救いだ。

「蓮さんがどれだけのソリストになっているか、この耳で聞き分けないと。俺も負けてなんかはいられないから。ま、負ける気は一切ないけれどね」

 キッパリと言う衛藤の強さを、香穂子は羨ましいとすら思った。

「私もしっかりと勉強させて貰うよ。衛藤くんに負けないぐらいに」

「俺、香穂子さんの音が好きだから、蓮さんの音の刺激を受けた香穂子さんの音の変化が楽しみだ。まあ、俺が一番影響を与えたいんだけれど……」

「何?」

「何でもない。とにかく、香穂子さんの進化した音が楽しみだということだよ」

 衛藤はほんのりと照れるように言う。

「有り難う」

 今は吉羅のことは考えないでおこう。

 ただ、ヴァイオリンのことだけを、音楽のことだけを考えれば良い。

 ちらりと吉羅を見ると、女生徒と音楽について熱心に話し込んでいる。

 表情は相変わらずクールのままだから、そこからは何も読み取ることは出来ないが、女生徒を気に入っているのは確かだ。

 吉羅はもうこの子に夢中なのかもしれない。

 そう思うと切なくなった。

 だめだ。

 音楽に気持ちを切り替えなければならない。

 香穂子は月森が奏でるヴァイオリンに集中することが出来た。

 月森の音は、更に透明感を増して、月光のように美しくなっている。

 技術はもちろん、表現力も上がっている。

 自らを省みると、全く向上していないことが分かる。

 恋にかまけていたからだろうか。

 負けられない。

 香穂子は、自分も更に向上すると強く誓った。

 香穂子はもちろん、衛藤も更に刺激されたようだった。

 吉羅が連れてきた女生徒は、月森の演奏に心酔しているようだ。

 三人のヴァイオリンを志す者に刺激を与えられるなんて、やはり月森は飛び抜けて素晴らしい。

 香穂子は、少しでも良いから近づきたいと思った。

 

 演奏会が終了した後、香穂子たちは楽屋に呼ばれた。

 女生徒はすっかり上がっている。

「日野、来てくれたんだな。有り難う」

 月森は穏やかな笑みで香穂子だけを見つめてくれている。

 とても懐かしい眼差しだ。

「こちらこそ、素敵な演奏を有り難う。とても勉強になったよ。明日も見せてもらうよ」

「明日はひとりか?」

「うん、そうだよ」

「そうか……」

 月森は香穂子に笑みを向けてくれる。

 懐かしい友人に微笑んで貰えるのは、嬉しい。香穂子も同じように笑顔になった。

 不機嫌そうなオーラを感じて、香穂子は振り返る。

 すると、吉羅と衛藤の従兄弟コンビがあからさまに不機嫌な顔をしていた。

 どうしてそんなにも不快そうな顔をするのか、香穂子には全く解らない。

 女生徒がうっとりと月森を見ているからだろうか。

 そんなことを考えると、香穂子はますます重い気持ちになった。

 特に吉羅の表情がとても厳しい。

 ちらりと吉羅と目が合うと、攻撃するような眼差しを向けてきた。

 どうしてこのような表情をするのかが、香穂子には全く解らない。

 月森との再会の喜びがかき消されるような、そんな気分だった。



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