前編
窓を開け放っていると、とても心地好い風が入ってくる。 香穂子はその風を受けながら、夜空を見つめた。 もうすぐ家に帰らなければならない。 香穂子にはタイムリミットだ。 今夜は家族は旅行に出かけていていないが、まだ吉羅のところで泊まったことはないからだ。 まだそのような関係になるには、ステップアップが必要だと、香穂子自身も思っていた。 「吉羅さん、夜風がとても気持ちが良いですね。吉羅さんが横浜にお引っ越ししてきて下さって嬉しいです。ギリギリまでこうして一緒にいられますから。六本木だとやはり時間をかなり気にしてしまいますから」 香穂子は夜風にあたってレモネードを飲みながら、ふふっと幸せな気分で笑う。 甘いレモネードが幸せな気分を運んでくれた。 吉羅が身体に良い素材を使って作ってくれたのだ。 甘さと愛情がたくさん詰まったレモネードだ。 あんなにもクールな雰囲気の吉羅が、レモネードを作るなんて誰も想像しないだろう。 しかもアルコールを飲まない恋人のために作るのだ。 テラス出て、夜風に当たりながらレモネードを飲む。 こんなに幸せな瞬間は他にないと思う。 甘酸っぱいレモネードと同じ味の幸せがある。 レモネードを飲み終わったら家に帰らなければならない。 今日も随分と長居をしてしまった。 香穂子は次第にレモネードを飲むペースが落ちていることに気がついた。 「香穂子、レモネードが残っている。良かったらいかがかな?」 「有り難うございます。レモネードを頂きますね」 これでまたグラスにレモネードが注がれる。 本当にこれを飲み終われば帰らなければならないのだ。 車で送ってくれるため、吉羅もまたアルコールを取っていない。 「レモネードをこうして飲むのは幸せですね。落ち着いた幸せな気分になれます」 「それは良かった。レモネードはフルーツを入れてパンチにしても美味しい。今度、デザートで作ろう」 「有り難うございます」 吉羅が作ってくれるとっておきのデザートは想像以上に甘くて、美味しいことだろう。 香穂子は楽しみの余りに、つい笑顔になった。 理事長としての吉羅はかなり厳しいし、甘やかすなんてことは辞書にないように思える。 だが、実際に恋人になると、優しく包み込んでくれる上に、甘やかせてくれる。 厳しいところもあるから、きちんとバランスが取れている。 香穂子の為に優しくて、また厳しい。 それが解っているから、厳しいことを言われても、信じて総てを受け入れられた。 「先ほどから、レモネードが余り進んでいないが、飽きてしまったかね?」 「そんなことはありませんよ。飽きてはいないです。美味しいです」 香穂子は笑顔でレモネードに口付けると、グラスを月に掲げてみせた。 月の光が似合う飲み物だ。 香穂子は控え目に輝く様子をじっと見つめていた。 レモネードをのんびりと楽しそうに飲んでいる香穂子は、いつも以上に美しいと吉羅は思う。 正直に、香穂子以上に美しいと思える女性はいないのではないかと、吉羅は思っている。 恋人の欲目だと言われたら、そうかもしれない。 だが、吉羅がここまで誰かに夢中になったことは今までなかった。 モテないわけではないと自分でも思っているし、女性とも数々の浮き名は流してきた。 だが、どの恋も、吉羅が心から夢中になれるものではなかったのだ。 いつも何処か冷めていた。 恋なんて良いものじゃない。 打算が付き纏うものだと、ずっと思っていた。 だが、香穂子が相手だと、そうではなかった。 素直に愛していると思えた初めての相手だ。 だからこそ、香穂子を心から大切にしている。 こうして一緒にいる時も、束縛が出来ないぐらいに愛しいと感じていた。 もし、香穂子を抱いたら、どうなるだろうか。 夢中になりすぎて何も見えなくなるかもしれない。 もっともっと愛しく思え、香穂子をいつでも抱き締めていたいと思うだろう。 そんな自分を見せることで、香穂子を驚かせたくはなくて、吉羅は今まで自分の欲望や愛情にセーブをかけていた。 だがそれも限界に来てしまっている。 吉羅は、香穂子を見つめながら、このまま捕まえておければ良いのにと思わずにはいられなかった。 特に今夜の香穂子は美し過ぎる。 ずっと見つめていたいとすら思う。 吉羅は愛する女性をただ見つめていた。 抱き締めたい。 キスをしたい。 だが、そうしてしまえば、香穂子をこのまま捕らえて離せなくなってしまう。 今夜の香穂子はそれぐらいに美しかった。 香穂子はレモネードを飲むと帰ってしまうのだ。 だから多めに作って、ほんの少しの時間でも良いから、そばにいて欲しかった。 香穂子はレモネードをチビチビと飲む。 まるで酒好きのオヤジが、勿体ないからと少しずつ高級の酒を飲むかのようだ。 香穂子はちらりと吉羅を見た。 吉羅は本当にくらくらするぐらいに素敵だ。 いつも香穂子はうっとりと見つめている。 今夜もクールにレモネードを飲む姿が、とても艶やかだ。 見つめるだけで息が苦しくなるぐらいに、今夜の吉羅はロマンティックに素晴らしかった。 帰りたくない。 なんて、なかなか言い出せない。 ずっと大切に扱ってくれている吉羅が怒ってしまうかもしれない。 だが、香穂子ももう高校生ではない。 立派なひとりの女だと思っている。 だからこそ、吉羅とはもっと違った形で、愛を交わしたいと思っていた。 ふしだらな女だろうか。 そんなことは到底思ってはいないが、吉羅が絡むと、ふしだらになりたくなるのだ。 あくまで吉羅限定のふしだらさではあるのだが。 香穂子は、吉羅を見つめながら、レモネードを口にするのを忘れているかのように振る舞う。 レモネードがなくなったら、帰らなければならない。 だったら少しずつ確信犯のように飲めば良いと思った。 吉羅が不意に香穂子の横にやってくる。 いっこうに減らないグラスの中のレモネードを見つめてきた。 「…今夜は満月か…。月が綺麗だね」 「はい。ヴァイオリンがよく似合う夜ですよ。気候もちょうど良いから、いつまでも夜風にあたっていたい気分ですよ」 「…確かにそうだね…。涼んでいると気持ちが良いね。やはり天然の風には敵わないね」 「そうですね」香穂子はほんの少しだけレモネードに口付けた。 飲むなんて勿体ないことは出来なかった。 「…香穂子、レモネードが全く減っていないようだが?」 吉羅に痛いところを指摘されてしまい、香穂子は曖昧に笑うことしか出来ない。 「…吉羅さんこそ、レモネードが減っていませんよ」 吉羅は一瞬、苦笑いを浮かべた。 「…確かにね…。余り喉が渇いてはいないからね」 「私もです…」 香穂子は曖昧に誤魔化すように吉羅に笑いかけた。 本当は違う。 ただ吉羅と一緒にいたいからだ。 本当のことを言うと軽蔑されてしまうだろうか。 吉羅を見つめていると、香穂子は言わなければならないような気がした。 「…本当は…、吉羅さんのそばにいたいから、レモネードをちびちびと飲んでいたりして…」 香穂子が小さく囁いた途端に、吉羅に思い切り抱き締められた。 「…香穂子…。本当に帰りたくはないのかね!?」 吉羅に静かに訊かれると、香穂子はゆっくりと頷く。 すると次の瞬間、吉羅は香穂子を力強く抱き締めて離さなかった。 「…私も君を帰したくないよ…」 甘い囁きに、香穂子は幸せな緊張を刻んだ。 |