前編
吉羅は大人で意地の悪いひと。 香穂子はそう思いながらも恋する気持ちを抑えることは出来ない。 吉羅をいつも見つめている。 吉羅だけを見つめている。 だから、彼が自分のことなど少しも好きではないことぐらいは解っている。 この間も、たまたま銀座の楽器店まで足を運んで、ヴァイオリンの弦を張り替えていた時に、吉羅を見掛けた。 綺麗な大人の女性と一緒にいた。 お似合いの仲睦まじいふたりで、到底ふたりの間には入れないことを悟った。 だから吉羅に逢うのがとても切ない。 息苦しいと言っても良いぐらいだ。 香穂子は、胸の奥が苦しくておかしくなりそうだったから、これ以上は逢えない。 苦しくてしょうがなくて、自分でもどうして良いかが分からない。 吉羅は忙しいひとだから、避けるのは難しくはない。 逢わない日のほうが多いからだ。 それに香穂子も既に自由登校で、ヴァイオリンの練習をしに行くぐらいだった。 ヴァイオリンの練習ならば、わざわざ学院の高校に行ってしなくても、進学が決まっている大学に行くほうが、余程、有意義だ。 香穂子はそう思って、大学で練習をすることにした。 吉羅は高校に出勤をするから、大学で逢うことなど殆どないのだから。 そうすれば、もう完璧に避けられると言っても良かった。 吉羅に逢うためだけに、学院に通ってヴァイオリンの練習をしていたに過ぎないのだから。 その上、吉羅に逢うためだけに理事長室にも押しかけてヴァイオリンを聴いて貰っていた。 それをしなくなっただけだ。 香穂子は、そんなことは吉羅は大したことだとは思わないだろうと、思う。 むしろ、目障りな小娘がいなくなって、せいせいするかもしれない。 香穂子は、アッサリ、スッキリとした気分にはなれなかったが、いつかそうなれるようにと自分に言い聞かせていた。 明日からは極力吉羅暁彦には逢わない。 逢ってしまえば、届かぬ想いにこの身がおかしくなりそうだったから。 苦しくなる前に、このような気持ちから脱却したい。 香穂子は強く思った。 香穂子は、ヴァイオリンのためだけに前を向いて生きていこうと決意をする。 もう何もいらない。 ヴァイオリンがあれば良い。 香穂子は、ヴァイオリンだけに集中することを決めた。 最近、日野香穂子を見掛けない。 全くだ。 いつもならば、ひょいと理事長室に顔を出しては、練習の成果を聴かせてくれるというのに、最近ではサッパリだ。 学院の中を歩いていても、その姿を目にすることがない。 それどころか、臨海公園で練習をしている姿すらも見掛けないのだ。 いつもならば、土曜日に臨海公園に行けば、必ず日野香穂子に会えて、最近にご機嫌な午後を過ごすことが出来るというのに、その楽しみがパタリと消えてしまった。 こんなことが本当にあって良いのだろうかと、吉羅は思わずにはいられない。 日野香穂子と会うのは、当たり前だった。 だが、当たり前でなくなった今、こんなに苦しくて苛立ちを覚えるなんて、思ってもみないことだった。 香穂子がいないと、苦しくて、どうにかなってしまうかもしれないと、思わずにはいられない。 こんな感情は今まで感じたことなどなかったというのに。 毎日が苛々してしまう。 仕事が捗らない。 全く安らぎがない。 以前よりも深く眠れなくなっている。 香穂子と出会ってからというもの、深く眠ることが出来るようになっていたというのに。 サッパリ眠れなくなってしまった。 これでは、香穂子と出会う前と同じだ。 いや、むしろ酷くなってしまっているかもしれない。 苦しくて、溜め息が零れてしまう。 呆れる以外に溜め息を吐くことなんて、今までなかったというのに。 吉羅は、香穂子に逢えないことが、こんなにも自分自身にダメージを与えるなんて、思ってもみないことだった。 どうすればこの絶不調から脱却出来るのか。 答えは簡単過ぎて笑ってしまう。 香穂子に逢えば良い。 ただそれだけなのだ。 それは解っていても、なかなか難しい特効薬だとも思う。 こんなにも逢えないと不安になる。 ひょっとして酷い病気に罹っているのではないかと、そればかりを考えてしまう。 吉羅は、心配で押しつぶされそうになっていた。 吉羅に逢えなくなってから、ヴァイオリンの調子が酷くなっている。 上手く弾くことが出来ない。 こんなにも上手くいかないなんて、久し振りかもしれない。 調子が悪くなったタイミングが何処なのか、香穂子には充分過ぎるぐらいに解っている。 吉羅と美しいひとを見掛けた時からだ。 あれから吉羅とは一切逢ってはいない。 ヴァイオリンを弾くのにも張り合いがなくて、香穂子はしょんぼりとしていた。 苦しくてしょうがない。 だが、時間が解決をしてくれる。 この想いは、いつか優しいものになると信じている。 香穂子はそう思いながらも、何処かで苦しくなるのではないかと、予感めいたことも感じていた。 忘れようとしているのに、吉羅がどうしているのかと気になってしまう。 金澤にならさり気なく訊けるだろうか。 午後から用で大学に来ると聞いているから、その時に訊いてみようと思った。 しつこいのかもしれないが、やはり気になってしょうがなかった。 香穂子に逢いたい。 逢いたくて堪らない。 もう限界になっているのは確かだった。 吉羅は、香穂子の状態について、金澤に訊くしかないと思った。 金澤ならば、きっと何かを知っている筈だ。 香穂子とあれほど仲が良いのだから。 吉羅は意を決して金澤の元に向かった。 「お? 随分と珍しいヤツが来たな」 吉羅の状態を見て、金澤は眉を上げた。 「金澤さん、日野香穂子の動静をご存じですか?」 思い通りの言葉と思ったのだろう。金澤は意地の悪そうな笑みを滲ませた。 「日野か? 日野なら元気だぜ。毎日、大学の練習室に通っている。あちらのほうが数も多いし、設備も整っているからな」 確かに大学の設備はかなり充実している。 今年度から力を入れているのだから当然なのだが。 「俺は用で今から大学に出掛けるが、いるんじゃないか? 日野も。話したいと言っていたからな、俺に」 これは千載一遇のチャンスではないかと思う。 「では、ご一緒させて下さい」 「ああ」 金澤は頷くと、吉羅を見た。 「勿論、車を出してくれるんだろうな? 理事長閣下」 金澤の言葉に、吉羅はわざと渋々頷くふりをする。 「分かりました。大学まで車で行きましょう」 「そうこなくっちゃな。理事長」 金澤は解っているのだろうか。 元々かなりの洞察力を持っているからかなり敏感だ。 吉羅の香穂子への想いも気付いているかもしれない。 吉羅は、それがバレてしまっても構わないと思いながら、車を大学へと走らせる。 どうしても香穂子に逢いたい。 逢いたくて堪らない。 こんなに誰かを求めることなんて、他になかった。 吉羅のまなざしは香穂子の姿を求め、その耳は声とヴァイオリンの音色を求めている。 唇は…。 一瞬、甘く苦しくなる。 それ程までに求めていた。 車を大学の駐車場に停めて、吉羅は金澤と一緒に練習室へと向かう。 ドキドキしてたまらない。 練習室の窓から香穂子の姿が見えた瞬間、この上ない幸せを感じた。 |