後編
吉羅はどうしているのだろうか。 そればかりが気になってしまい、ヴァイオリンに真剣な向かい合うことが出来ない。 もう自分にはヴァイオリンしかないというのに。 香穂子は、恋とはままならぬものだからこそ、華やかで美しいのだろうと思った。 もうすぐここに金澤がやってくる。 さり気なく吉羅のことが訊けるのではないかと思った。 最近、全く逢ってはいないから、せめて元気かどうかぐらいは訊きたい。 自分でもかなり重症だろうと、香穂子は思っていた。 曲の区切りがついたところで、ノックをする音が聞こえた。 「日野、邪魔するぞ」 金澤の声が聞こえて、香穂子は振り返った。 すると金澤に続いて、吉羅が練習室に入ってくる。 まさか吉羅暁彦がやってくるとは思ってもみなくて、香穂子は驚く余りにその場に立ち尽くした。 吉羅を見ると、幾分かやつれているように思える。 どうかしたのだろうか。 香穂子は心配でしかたがなくなる。 吉羅を見ると、こちらまで胸が切なく痛い。 「日野、書類を寄越せ」 「あ、は、はいっ」 吉羅を見つめていたものだから、金澤の存在をすっかり忘れていた。 香穂子が慌てると、金澤が苦笑いをした。 「ど、どうぞっ」 金澤に書類を手渡した後、香穂子は惚けてしまう。 「…日野、俺に訊きたいことがあったんじゃないのか…?」 「…え、あ…、あの」 訊きたいことは吉羅のことだったから、香穂子はどう答えて良いのかが分からない。 現に、目の前に本人がいるのだから。 「あ、あの、特に大丈夫です、そ、そのっ」 どう答えようとしてもしどろもどろになってしまう。 それはしょうがないことだ。 香穂子は溜め息を吐くと、何とか背筋をしゃんとさせた。 たまたまここに吉羅がいるだけなのだ。 本当にたまたまだ。 恐らくは金澤と用があるからだけなのだろう。 吉羅を避けていたとはいえ、理事長だからこそ遭遇するのも当たり前なのだ。 どうしてそのことを考えなかったのかと、自分の迂闊ぶりに、香穂子は溜め息が出る気分だった。 香穂子の姿を見ただけで、この上ない幸せを感じた。 こんなにも幸せなことは他にはないだろうと、吉羅は思う。 本当に香穂子に逢いたかった。 逢いたくて堪らなかった。 今までは寒さの厳しい冬だったのが、急に春になってしまったような気分だ。 少しばかり疲れているような様子が気になってしまったが、それがまた香穂子の美しさを助長しているような気がした。 本当に綺麗で、ついじっと見つめてしまう。 「さてと、俺の用件は終わりだ。吉羅、お前の用事を済ませろ。俺は先に戻ってるからな」 金澤はそう言うと、吉羅の肩をポンと叩く。 「ったく…、お前さんたちは世話がやけるな」 金澤は小さな声で苦笑いを滲ませて言うと、練習室から行ってしまった。 香穂子と、ふたりきりになった。 今までもそんなことは良くあったのだが、今日に限っては、緊張してしまう。 久し振りに逢うからだろう。 吉羅は深呼吸をすると、吉羅を見つめた。 「日野君、調子はどうかね?」 吉羅に訊かれて、香穂子は唇を僅かに震わせる。 この声を聞くだけで、こんなにも吉羅を求めてしまっている。 それだけ吉羅のことが好きだということだ。 「…可もなく不可もなくといったところです…」 「…そうかね。久し振りに何でも良いからヴァイオリンを聴かせてくれないかね?」 「はい」 吉羅の前でヴァイオリンを弾くのは本当に久しぶりであるから、緊張してしまう。 香穂子は、ヴァイオリンを構えた後、固くなる。 だがそばに吉羅がいるというのは大きくて、ヴァイオリンに集中することが出来る。 見守られている。 それをしっかりと感じることが出来たからだ。 香穂子はヴァイオリンに集中すると、そのまま気持ちを高ぶらせて集中していく。 いつしかヴァイオリンが奏でる世界へと、引き込まれていった。 ヴァイオリンを奏で終わると、吉羅はいつものように拍手をしてくれた。 「悪くない。ただ、いつもはもっと温かさを感じるが、今日は切ない音色だったね。色で言えば、ブルーだね」 吉羅は静かに言うと、香穂子を見た。 「有り難うございます」 こんなにも真直ぐ吉羅に見つめられると、ドキドキする余りに、胸が高まるではないか。 吉羅をまともに見つめることすら出来やしなかった。 あれほどまでに吉羅を諦めようと思っていたというのに、本当に諦めきられなくなっている。 そんなに見つめないで欲しかった。 「最近は、忙しいのかね?」 「あ、あの、それなりには…。進学を控えていますし、授業が始まるまでにヴァイオリン技術を高めておきたくて…」 「それは良いことだ。大学に行けば、全国から様々なヴァイオリニストがやってくるからね」 「はい」 彼らとの溝を無くしておかなければならない。 それが最低限やらなければならないことだと、香穂子は思っていた。 「…だが、余り無理をするんじゃない。躰が資本だからね。休める時に休まなければならないよ。きちんと体力をつけて、いつでも戦闘体制を取れるようにね」 「はい」 相変わらず吉羅は、さり気なく兄のように心配をしてくれている。 だが本当は、兄のようにではなく、ひとりの男性として心配してくれていたら良いのにと、思わずにはいられない。 香穂子の胸の端がまたキュンと痛む。 「最近、無理をしているのではないかね…? 幾分かやつれて見える。ヴァイオリンも大切だとは思うが、それ以上に君の健康も大切だということを解っているのかね?」 「…はい…」 やつれているというのであれば、原因は吉羅と逢わなくなったからだ。 吉羅と一緒に過ごさなくなったからだ。 それ以外には有り得ない。 「有り難うございます。だけど理事長も随分とお疲れのようですよ。お仕事ばかりも良いですが、本当に休める時にはしっかりと休んで下さいね」 「解っている。有り難う…」 吉羅はフッと笑うと、この上なく優しいまなざしを向けてくる。 こんなまなざしで見つめられると、諦めようとしていた恋が、またむくむくと復活してくるではないか。 それはあまりにも切なくて辛い。 「日野君、気分転換をしないか…?」 「気分転換?」 「久しぶりに食事でも如何かね?」 吉羅の申し出は嬉しい。だが、あの美しいひとのことを思い出すと、切なくなる。 「お誘いはとても嬉しいです。行きたいです。だけど…私と一緒に食事をされると、気にされる方…恋人が…いらっしゃるんじゃないですか?」 香穂子が沈んだ気分になると、吉羅は眉を皮肉げに上げる。 「…私にはそんなひとはいない。だから気にしなくても良い」 「…え…? 本当ですか?だったら、銀座にご一緒されていた方は…」 「銀座…?ああ、彼女は、大学に新しく来て貰う、ジャーナリストの講師だ。既婚者だよ」 一気に気分が晴れ上がるような気がする。 香穂子はごく自然に笑顔になると、吉羅を見上げる。 「…君にはそのような相手はいるのかね?」 吉羅は幾分か気難しそうな表情になる。 「いません」 香穂子がキッパリと言い切ると、吉羅は、フッと笑みを浮かべる。 「…では、お互いに、特別な相手がいない者同士で食事に行こうか…」 「…はい!」 ふたりで笑顔で練習室を出る。 気持ちに素直になれるにはあと少し。 |