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秘密の恋だから、堂々とすることは出来ない。 だが、秘密、なんて、とても甘美な香りがする。 甘美な香りがするからこそ、甘い雰囲気があるのかもしれない。 堂々と付き合うことは出来ないし、何処か切なさも付き纏う。 いつも携帯電話を見ては、着信もメールもないことに落胆してしまう。 忙しい男性であることは知っているし、理解もしているつもりではある。 だが苦しいのは、どうしようもなく恋をしているからなのだろう。 「…全く、ご都合の良い女じゃないんだからね」 香穂子はわざと携帯電話に向かってひとりごちた。 すると吉羅からのメールが届く。 直ぐに飛び付こうとして、何だか複雑な気分になった。 何だか待ち構えていたと思われるのが、かなり癪に障る。 とはいえ、香穂子は我慢出来なくて、メールに飛び付いてしまった。 時間があれば、直ぐに理事長室にヴァイオリンを持ってきてくれて。 吉羅。 恋に関することではなくて、本当に仕事に関することなのかもしれない。 そう考えると複雑な気分になる。 とはいえ、吉羅に逢いたくてしょうがないから、結局は行ってしまうのだけれど。 ちょうど授業が終わったところだったから、香穂子は理事長室に向かうことにした。 以前の理事長室はときめいて緊張する場所だった。 今もときめいて緊張するのは同じではあるが、それに甘美さが加わっている。 イケナイことをしているような蜜の雰囲気だ。 ときめきも以前よりも輝きを増しているようだ。 香穂子はドキドキしながら今日も、理事長室をノックした。 「吉羅理事長、日野です」 「入りたまえ」 吉羅のカッチリとした硬い声が聞こえて、香穂子は理事長室へと入った。 誰も香穂子が理事長室に入るのを気にも留めない。 学院の中で、重要な生徒であることを認識しているからだ。 吉羅とは普通よりも交流がある程度にしか、誰も思ってはいないのだ。 実際に、吉羅は付き合っている素振りを他人の前で見せたことはないのだから。 香穂子が理事長室に入ると、吉羅は静かに立ち上がる。 「すまないね、急に呼び立ててしまって」 「大丈夫です」 吉羅はいつものように理事長らしく振る舞っている。 ここはパブリックな場所であるから、そうしなければならないのは解っている。 だが、チクチクと胸が痛くなるのだ。 「ヴァイオリンは持って来ているね」 「はい」 吉羅は視線で香穂子にヴァイオリンを確認し、頷いた。 「日野君、急で申し訳ないのだが、これから一緒に来てくれないかね? パーティがあってね、演奏予定だったヴァイオリニストがインフルエンザで来られなくなったんだよ。申し訳ないが…、代役をお願いしたい」 甘い恋のお願いではなかったから、香穂子はほんの少しだけー切なくなった。 だが、プロの代役だなんて、滅多とないチャンスでもある。 香穂子は素直に頷くことにした。 「分かりました。一緒に参ります」 「有り難う、助かる。申し訳ないがこれから直ぐに一緒に来てくれないかね?」 「はい」 香穂子が頷くと、吉羅は満足そうに頷いた。 手早く片付けをすると、吉羅は直ぐに理事長室を出る。 香穂子もその後をあたふたと着いていった。 「余り時間がないものだからね。会場にいけば総て準備をしてくれるそうだ。君は安心していて構わないから」 「有り難うございます」 香穂子は恋とは違ったときめきでドキドキする。 ヴァイオリンを観客の前で奏でる。 それが嬉しくてしょうがなかった。 車で会場である高級ホテルに連れていかれ、そこにあるビューティサロンに入れられた。 ブライダルの時にも使われるサロンだ。 「お願いしていた吉羅です」 「はい、お待ちしておりましたわ。直ぐに準備をしましょうか。どうぞこちらへ」 こんなにも本格的に支度をするなんて知らなくて、香穂子が戸惑いを見せていると、吉羅が頷いた。 「今日は外国人も多数参加するかなりなパーティだからね。きちんと支度をしなければならない。日野君、先ほど頼んで心の準備が出来ていないのは申し訳ないが、君なら出来ると信じている」 吉羅は真摯なまなざしで真っ直ぐ見つめてくる。 こんなまなざしで見つめられたら、やるしかないではないか。 それに吉羅が信じてくれていることが分かり、泣きそうになるぐらいに嬉しい。 受けなければ、成功させなければ、吉羅の恋人だとは言えないような気がした。 「分かりました。頑張ってみます」 「ああ、頼んだよ」 吉羅に見送られて、香穂子はサロンに入った。 流石は高級ホテルのブライダルに使われるだけあり、設備は素晴らしかった。 簡易エステをした後でヘアメイクをし、ドレスを身に纏う。 鏡に映る自分が、どんどん洗練されていくのが分かり、マジックではないかと思わずにはいられなかった。 もっさりとした平凡な自分が、洗練された姿になっていくのを見るのは、本当に幸せで、うっとりとときめいてしまった。 ずっとこうしていたいだなんて思ってしまったほどだ。 余り時間がない中、スタッフは手早く更には美しく仕上げてくれた。 ヴァイオリンのチューニングをする時間も必要であるから、これはかなり有り難かった。 レンタルではあるが、品のあるドレスとアクセサリーを着ければ完成だ。 鏡に映されて全身を見せられた時、思わず息を呑んだ。 自分ではないかのように思えるぐらいに、美しく仕上げられた。 流石はプロだと思わずにはいられない。 本当に綺麗にして貰いた、夢を見ているかのようだ。 「有り難うございます。とても嬉しいです」 「こちらこそ。では、演奏、頑張ってきて下さいね」 「はいっ!」 サロンのスタッフに見送られて、香穂子は背筋を伸ばしてサロンを出た。 直ぐに吉羅がやってくる。 相変わらずうっとりするほどに素敵だと思う。 表情は相変わらずクール過ぎるが。 一瞬、こちらを熱いまなざしで見つめてくれる。 ドキドキしなければ、おかしくなってしまいそうだ。 「日野君。会場はこちらだ着いて来るように」 「あ、はい…」 ドレスアップした姿を見て、褒めて貰えるかもしれないと、ほんの一瞬だけ期待をしたが、それは違っていたようだった。 あくまでも吉羅はビジネスライクだ。 折角、いつものよりも綺麗にして貰えたのだから、少しでも良いから褒めて欲しかった。 吉羅に対しては贅沢な想いであることは解ってはいたが。 「吉羅理事長、ヴァイオリンの音合わせは何処ですればよろしいでしょうか?」 吉羅があくまでもビジネスライクならば、香穂子もそうすることにする。 「控室に案内をする。そこを楽屋として使用したまえ。君の私服はそちらに運んで貰っているから、演奏が終われば、そこで着替えたまえ」 「はい、分かりました」 香穂子は頷くと、ヴァイオリンケースを力強く持った。 秘密の恋だから、甘い言葉なんて掛けて貰えないのは解っている。 だが、女の子はロマンティックな成分で出来ているから、つい期待をしてしまうのだ。 吉羅は、常識的に行動しているだけなのだが、それを頭では解っていても、香穂子の切なさは消えなかった。 楽屋に案内されると、流石に香穂子にもスイッチが入る。 ヴァイオリニスト日野香穂子になる。 「ここでヴァイオリンの音合わせをしておきますね」 「ああ」 吉羅は素っ気なく言った後、いきなり抱き締めてきた。
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