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吉羅と付き合っている。 その事実が香穂子を支えている。 デートも余り出来ないけれども、メールも余りないけれども、香穂子を確実に支えてくれているのは間違ない。 そんなに頻繁には逢えない。 逢えると言えば、学院の理事長室ぐらいだ。 それでもその時間はとても貴重だ。 大好きなひととは、なかなか会えないのだから。 香穂子は今日もときめきながら携帯電話でメールをチェックする。 だが相変わらずメールの返信は一切ない。 余りメールや電話をするひとではないことは解っているが、胸がチクチクと痛くなるのは確かだ。 友人たちは彼とのやり取りに夢中だというのに。 「香穂、最近さ、益々綺麗になっているけれど、何かあったの?」 「特にはないんだよ、本当に」 「残念! 彼氏でも出来たのかなあって思ったんだよ。最近、本当に香穂は綺麗だからさ、誰か素敵なひとでもいるのかなあって、思っただけだよ」 友人たちは屈託なく言うと、笑顔になる。 香穂子は内心ドキドキしてしまう。 相手が相手なだけに、なかなか言い出すことが出来ないから。 そんなにも吉羅との恋が肌に出ているのかと、香穂子は驚かずにはいられなかった。 「だからさ、最近、香穂のことを熱く見ている男子が多くてね、彼氏がいるのかどうかを訊いておいてくれって、よく言われるんだよ。だから、彼氏がいないって応えておいても構わないよね?」 友人の問いに、香穂子は言葉を詰まらせる。 本当は恋人はちゃんといる。 だが、その相手とは、秘密にしなければならない関係だ。 だから笑顔でキッパリと否定することは、香穂子には出来なかった。 「…そうだね」 曖昧に答えると、友人たちが訝しむような視線を向けてきた。 「どっちなのよ? 何だか怪しいなあ…」 からかうように友人に言われて、香穂子は胸が跳ね上がる。 「怪しいって言われても何もないから…」 思い切り怪しいのは、自分でもかなりよく解っているつもりだ。 だからこそ、香穂子は曖昧にしか答えられなかった。 「…香穂がさ、年上っぽい男性と楽しそうにしているのを見たってひとがいたから、問い詰めようと思ったけれど、やっぱり埃は出ないか」 友人の一言に、香穂子は飛び上がりそうになった。 「まあ、彼氏がいないということで答えておくよ。いいね?」 「う、うん」 香穂子は歯切れ悪く返事をして、曖昧に笑うしか出来なかった。 今日は理事長の前で演奏をする。 正確には理事会で、生徒たちの出来を見るためだ。 勿論、精鋭たちが集められている。 香穂子もアンサンブルメンバーに入って、ヴァイオリンを演奏する。 「香穂ちゃん、今日は一緒に頑張ろうね」 「はい! 有り難うございます! しっかりと演奏しますから、宜しくお願いします」 香穂子は火原とアンサンブルを演奏することになり、ホッとする。 火原とならばリラックスした演奏が出来るからだ。 勿論、音楽を楽しむことも充分に出来るメンバーだ。 「頑張りますから、宜しくお願いしますね」 火原とならば、演奏前に話せるから、力を抜くことが出来る。 それは香穂子にとっては、とても有り難いことに違いなかった。 香穂子たちの番になり、音楽の楽しさを伝えるための演奏に徹する。 ヴァイオリンを弾いていると気分が高揚して楽しくなった。 理事会では、概ね、どの演奏も好意的に受け止められて、好評だ。 演奏者として、そして吉羅の恋人として少しでも助けることが出来てホッとしていた。 理事会が終わると、香穂子はメンバーたちと色々と話をしていた。 誰もが笑顔になっている。 不意に携帯電話にメールが着信した。 理事長室に来て欲しい。 吉羅 そのメールを見た瞬間に、香穂子は気持ちがソワソワとするのを感じた。 吉羅に逢える。 ようやくふたりきりで話をすることが出来る。 香穂子はメールを見て笑顔になると、メンバーたちに断りを入れて、直ぐに理事長室へと向かった。 「理事長、日野です」 「入りたまえ」 吉羅に言われて理事長室に入ると、いつもよりも冷たい雰囲気の吉羅がそこにはいた。 「理事会、お疲れ様でした」 「ああ。君こそ演奏をありがとう」 吉羅は本当に不機嫌さが直ぐに解ってしまうような雰囲気がする。 香穂子はアンサンブルが気に入らなかったのではないかと、半ば気が気でなかった。 「アンサンブルは良かった」 吉羅はいつもよりも静かな声で言うと、香穂子を真っ直ぐと見る。 緊張してしまう。 「有り難うございます」 香穂子が御礼を言って視線を上げた瞬間に、抱き寄せられた。 「…あ…」 吉羅は、香穂子の躰が軋んでしまうのではないかと思うほどに抱き締めた後、唇を荒々しく塞いで来た。 その激しさに、香穂子はくらくらしてしまう。 息が出来ないぐらいに抱き締められて、香穂子は喘いだ。 こんなにも激しく抱き締められたことは、今までなかったことだから、香穂子は涙が滲むほどに恋心を感じる。 いつもはクールな態度しか取らない吉羅が、こうして抱き締めてくれるのが嬉しくてしょうがなかった。 激しく何度もキスをされて、唇がぷっくりと膨れる。 こんなにも求めてくれていることが、香穂子には嬉しかった。 唇が離された後、吉羅と視線が絡み合う。 潤んだまなざしで見つめていると、吉羅が突如、激しく抱き締めてきた。 「…あ…」 香穂子が甘い声を漏らすと、吉羅は激しく抱き締めてくる。 その強さに、香穂子は喘いだ。 髪を優しく撫で付けられながら、ようやく落ち着いたように抱き締めてくれる。 「今日の演奏はとても良かった…。音楽の楽しさがよく出ていたからね」 「有り難うございます。そう言って頂けると、私も嬉しいですから…」 「ああ」 吉羅は香穂子を慈しむかのように、それこそ何度も何度も背中を撫でて来る。 リズミカルな優しさに、香穂子はすっかりと甘えて幸せに溺れていた。 「…しかし、君にちょっかいを出そうとしている輩はどうにかならないものかね…」 「ちょっかい?」 「君と私が付き合っているというのに、あわよくばと考えている不逞の輩のことだよ。君を誰にも渡す気はないからね。私は…」 吉羅は明らかに不快そうな声で言うと、香穂子を抱き締める腕に力を込める。 嫉妬をしてくれるなんて意外だった。 それがまた嬉しいのだが。 「嫉妬されるのは意外だと思って…」 嫉妬をする吉羅がとても可愛いくて、香穂子は幸せな笑みを浮かべた。 香穂子が笑うと、吉羅は少しバツの悪そうな顔をする。 「…私が嫉妬するのは意外かね? これでもずっと嫉妬していたよ…。付き合う前からずっとね…」 吉羅の言葉が嬉しくて、つい満面の笑みになる。 「…嬉しいです…。私も吉羅さんには素敵なひとがいるんじゃないかと思って、ずっと嫉妬していました…」 「…いない誰かさんに?」 「はい。“エア嫉妬”ですね」 「…君は本当に可愛いね…」 吉羅はフッと笑った後、香穂子を熱いまなざしで見つめる。 「香穂子…、私は君を離さない。覚悟しておくんだね…。仕事が忙しい時には君に寂しい想いをさせるかもしれないが…、それは了解して欲しい。それに今は色々と苦しいことがあるが、お互いにそれを乗り越えていこう」 「はい」 秘密の恋。 秘密の恋人。 だが、今はそれでも幸せ。 香穂子は心からそう思いながら、吉羅に甘えるために胸に頬を押し当てる。 このひとときがあれば、我慢出来た。 |