*Secret Amour*

2


 吉羅と秘密の恋をしている。それは自分で決めたこと。

 にわかには信じられないこと。

 あれ程までに憬れていたひとだったから。

 香穂子は未だに夢を見ているのではないかと思った。

 本当に吉羅と付き合っているのだろうか。

 何度となく嘘なのではないかと思わずにはいられなかった。

 嘘じゃない。

 それが信じられないぐらいに、香穂子は吉羅に恋をしていた。

 

 吉羅に抱き締められて、「好きだ」と言われた時に、妄想の海に泳いでいるのではないかと思った。

 だが、吉羅に抱き締められて、もう一度「好きだ」と言われた時、これは現実なんだと、ようやく思えた。

「信じられないようだね?」

「…ずっと…大好きだったから…、本当に夢なんじゃないかって思ったんですよ…」

 香穂子がドキドキしながら呟くと、吉羅はフッと笑った。

 その笑顔は、まるで少年のようでとても瑞々しかった。

「私は徐々に君の外堀を埋めようと頑張ってきたんだよ」

「え…?」

 香穂子は驚いて吉羅を見上げる。

「…気付かなかったのかね?」

 吉羅は苦笑いを浮かべると、香穂子に顔を近付ける。

「…興味のない女性を、そう何度も誘わないよ。少なくとも私はね」

「…私を元気づけるためだと、ずっと思っていました…」

「私はそこまでお人好しではないよ」

 吉羅は苦笑いをすると、香穂子に顔を近付ける。

 そのままキスをされて、香穂子は、まるで夢の中にいるような気分だった。

 フワフワとしていた、夢の中を歩いているようなそんな気分だ。

 吉羅とのキスは想像以上にロマンティックで、うっとりとしてしまいそうになった。

 本当にこれが現実なのだろうか。

 フワフワとした場所を歩いているような気分から、全く抜け出せなかった。

「私達は、堂々と付き合うことは難しいが…、それでも構わないかね? 秘密の付き合いになってしまうが…」

「それは構いません…。私にとっては、吉羅さんと一緒にいられたら良いから…」

「有り難う…。君には色々と苦労をさせるかもしれないが、君のことは必ず守るから…」

「有り難うございます…」

 香穂子は笑顔で静かに呟くと、自分から初めて吉羅に抱き着いた。

 ギュッと抱き締められて、香穂子はドキドキする余りに顔がほてるのを感じた。

「有り難うございます。とても幸せです」

 本当に夢のように幸せで、香穂子はその中にいつまでも浸っていたいと思う。

 こんなにも幸せだなんて、今まではなかったことだ。

 だからこそ、香穂子は、夢なのではないかと思わずにはいられなかった。

 

 秘密の恋が始まった。

 吉羅と付き合い始めて、何かが変わったかといえば、本当に何も変わっていないというのが答えだ。

 吉羅が相手であるからか、頻繁にメールをしたり、ましてや電話をしたりすることなんて、あるはずもなかった。

 今までとは何も変わらない。

 そう思った時に、吉羅から携帯電話にメールが入った。

 

 授業が終わったら、理事長室に来て欲しい。

 吉羅

 

 こうして呼び出されるのは始めてだったから、香穂子は少しだけ驚いた。

 吉羅に逢えるのは嬉しいから、香穂子は吉羅の聖域でもある理事長室へと向かった。

 

「理事長、日野です」

「入りたまえ」

 いつもと何も変わらない事務的な吉羅の態度に、本当に自分達は付き合っているのかと、香穂子は思ってしまう。

 とはいえ、ふたりの恋は秘密の恋ではあるから、吉羅の態度には納得がいくのだが。

 香穂子が理事長室に入ると、吉羅は仕事をしていた。

 相変わらず仕事熱心なひとだ。

 そこが尊敬出来るところでもある。

「こちらへ来たまえ」

 吉羅に言われて、香穂子は恐る恐る近付いていく。

 するといきなりしっかりと抱き締められてしまった。

「…あ…」

 いきなりこのようなことをするとは思ってはいなかったので、香穂子は驚いてしまった。

 だが同時に、こうして貰えることがとても嬉しい。

 息が出来ないぐらいに抱きすくめられて、香穂子は喘ぐような溜め息を漏らした。

 自分を求めているかのように抱き締めてくれるのが嬉しくて、香穂子はそれに応えたくて、思わず吉羅を抱き締めた。

「…香穂子…」

 吉羅に名前を呼ばれるだけで、なんて嬉しいのだろうかと思った。

 暫くはお互いをチャージしあうかのようにしっかりと抱き合う、

 秘密の逢引をするには、理事長室は最高の場所なのかもしれない。

 少なくとも見られることはないのだから。

 それは有り難いと香穂子は思った。

 吉羅と一緒に抱き合っているだけで、なんて幸せなのだろうかと、香穂子はそればかりを感じていた。

 吉羅は香穂子から離れると、苦笑いを浮かべる。

「すまなかったね、君をつい抱き締めたかったから…」

 吉羅の照れ臭そうにする表情が可愛いと思いながら、香穂子は笑顔になった。

「私も吉羅さんとこうして抱き合いたかったですし…」

 本当のことを言うのが妙に恥ずかしくて、香穂子は耳まで真っ赤にしてしまった。

「こんなことで君を呼んでしまうなんて、私は相当、君に溺れているということだね」

 吉羅は本当に苦笑いを浮かべている。

 それが香穂子には可愛かった。

「いつでも呼んで下さい。出来る限りあなたのそばにいたいですから…」

 本当にそうだ。

 出来る限り吉羅のそばにいたい。

 それが香穂子の希望でもある。

「ああ。遠慮なく呼ばせて貰うよ」

 こうして、今までは見ることが出来なかった吉羅の可愛い部分が見られるのは、とても嬉しい。

「…少しここにいて貰えないかね? ここなら誰にも見られないからね」

「そうですね」

 コソコソしているのは忍びないが、こうして吉羅のそばにいられるのは嬉しかった。

「私は仕事に戻るが、君はここにいて貰って構わないかね?」

「はい。新しい楽譜の初見をしたいのでお願いします」

「有り難う」

 吉羅が再び仕事に集中すると、香穂子はソファに腰を掛けて楽譜を読むことにする。

 吉羅がそばにいるとドキドキする。

 だが、安心もするのだ。

 香穂子はいつもよりも集中力を高めて、楽譜の世界に没頭していった。

 

「日野君」

「はい」

 香穂子が顔を上げると、吉羅がこちらを見ていた。

「私はこれから財界のパーティに行く。すまないが、理事長室を出る」

「分かりました。では私も失礼します」

 吉羅はこれから用があるのかと思うと、何処か切なくなる。

「わがままを言って悪かったね。君にそばにいて貰えて嬉しかった。有り難う」

 吉羅は申し訳なさそうに言う。

 大好きでしょうがないから、片時も離れたくないのは事実だ。

 だから香穂子にとっても素敵な時間であったのは確かだ。

「お気をつけて行ってきて下さいね」

「ああ」

 香穂子は深々と頭を下げると、理事長室をゆっくりと出た。

 何だか寂しい。

 堂々と付き合える関係ならば、手をしっかりとと握りあって、一緒に外に出ることが出来るというのに。

 切なくて胸が苦しかった。

 

 香穂子はひとりでトボトボと自宅に向かう。

 吉羅と付き合えるだけでも贅沢なのに、いざ夢が叶ってしまうとそれ以上に求めてしまう。

 これこそわがまま。

 なのに求めてしまうのは、もっと愛してもらいたいと思っているからだろう。

 香穂子は、ふと溜め息を吐く。

 吉羅との恋は秘密になる。

 それは解っているというのに、香穂子はそれが苦しい。

 こんなにも贅沢な悩みはないというのに。

 恋する女は欲張りだと、香穂子は思わずにはいられなかった。



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