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香穂子は、また理事長室に向かう。 吉羅暁彦に逢いにゆくためだ。 もう高校生ではない。 まだ学院の生徒だけれども、吉羅が仕事をする高校には用なんてない。 だが、吉羅の顔が見たくて、つい立ち寄ってしまう。 用があるふりをして。 吉羅に逢う前は、必ず綺麗に化粧を直す。 一番綺麗な状態で大好きなひとに逢いたいというのは、やはり香穂子も乙女であるということなのだ。 香穂子は、少し背伸びをした赤を使う。 リキッドルージュとリップグロスが一体になったものを買った。 新しいルージュを着ける時はいつでもドキドキとするものだ。 吉羅に気に入って貰えるのかどうか。 ついそればかりを考えてしまう。 吉羅に似合うと言って貰いたい。 ただそれだけで、香穂子はルージュを買った。 今日は気品のある大人ルージュに似合う洋服を着た。 少しは吉羅と並んでもバランスが取れるだろうか。 そればかりを考える。 香穂子は夏らしく髪をあげて、少しだけ大人びたスタイルで、吉羅の元に向かった。 吉羅は仕事の合間、知人と逢っていた。 ちらりと時計を気にしてしまう。 そろそろ香穂子が理事長室にやってくる時間だ。 香穂子とは出来る限り二人だけで逢いたいと思っている。 ましてや、こんな見合い紛いのことを見られたくはないという想いもある。 目の前にいる女性は、確かにしっかりとしていて美しい。パートナーにするには、ぴったりな女性なのかもしれない。 だが、吉羅にはピンと来ないのだ。 女性がここに来ているのは、表面上は商談ではあるが、本当はそうじゃない。 知人が見合いをさせる為に送り込んできたのだから。 「以上検討させて頂きますよ。有り難うございます」 吉羅はさらりと交わすように言うと、女性を追い出すために強制的に送り出す。 やんわりと紳士的な態度で、気付かれないようにはしているのだが。 女性は少しばかり困惑しているようだった。 この夕刻近い時間に来たということは、恐らく、食事をしながら懇親を深めるぐらいのことを考えていたのだろう。 だが、タイムリミットだ。 以前の吉羅ならばそうしたかもしれないが、今は違う。 誰よりも一刻も早く逢いたい女性がいるのだ。 だから、早く終わらせてしまいたかったというのが、吉羅の本音だった。 「ではまた」 吉羅が女性を見送っていると、香穂子の姿が見えた。 今日の香穂子はいつもよりも華やかで、美しく思える。 「では、また」 「ええ」 女性を見送った後、吉羅はクールなまなざしで見つめた。 吉羅が静かに立っている。 女性と逢っていたのだと思うと、切なくなる。 吉羅のことを思うだけで、苦しい。 「こんにちは、理事長」 とりあえずは挨拶をしておこうと思い、香穂子はぶっきらぼうに挨拶をした。 「こんにちは、日野君」 「あ、あの。ヴァイオリンを弾きに来ました。お邪魔なら…私…」 「ここで突っ立っていても邪魔だ。中に入りたまえ」 吉羅はいつも以上にクールに言うと、理事長室のドアを大きく開けてくれる。 「…はい…。だけどお邪魔なら失礼しますよ」 邪魔なら帰ったほうが良い。 「好きにしたまえ。君の自由だ」 吉羅はいつも以上に冷たい。 それがどうしてなのかは分からない。 「分りました。じゃあ帰ります」 香穂子はキッパリと言うと、そのまま踵を返す。 邪魔だとまなざしが話しているような気がして、いたたまれなかった。 ヴァイオリンを弾かせて下さいと言っても、空しいような気がする。 だからここはあえて帰ることにした。 「失礼します」 「ああ」 香穂子は理事長室横の階段をゆっくりと下りてゆく。 公園でヴァイオリンを弾けば良い。 香穂子は歩いて臨海公園へと向かった。 香穂子がいつもよりも美しかったから、つい冷たくしてしまった。 誰の為に綺麗にしているのか。 それを考えるだけで、吉羅は苛々してしまった。 自分以外の誰かのために、香穂子が綺麗になるなんて、堪らなかった。 まるで小学生だ。 自分よりも一回り以上離れた相手に、初な少年のような感情を抱くなんて。 全くどうにかしている。 誰かをこんなにも切なく求めたことは、今までなかった。 吉羅は溜め息を吐くと、仕事の後片付けをする。 自分が悪いとはいえ、一番楽しみにしている時間を棒に振るなんて、思ってもみなかった。 吉羅は素早く理事長室から出ると、愛車のフェラーリに乗り込んだ。 「…こんなことだと…、私は一生、結婚出来ないかもしれないな」 吉羅は苦笑いを浮かべると、車を出した。 臨海公園前をついゆっくりとしたスピードで走ってしまう。 もしかしたら香穂子がいるのかもしれない。 そんなことばかりをつい考えてしまう。 吉羅は自分の駄目ぶりに溜め息を吐いた。 どうして香穂子が絡んでしまうと冷静になれないのだろうか。 いつもそうだ。 好きだから苛めてしまう子供のようだ。 ふと、見慣れたシルエットが視界に入る。 日野香穂子だ。 吉羅は思わず車を公園横の駐車場に入れた。 急いで車から降りると、香穂子はヴァイオリンを弾いていた。 切なくて何処か温かな音色だ。 思わず聞き惚れてしまう。 あの時、冷たいことを言わなければ、理事長室で聴けていたかもしれない音色なのだ。 吉羅がゆっくりと近付くと、香穂子がちょうど演奏を終えたところだった。 吉羅の姿を見るなり、香穂子は驚いたようにこちらを見つめる。 「…理事長…」 「日野君、今日のヴァイオリンは悪くなかった」 「有り難うございます」 先ほどのことがあるのだろう。 香穂子は目を伏せたままで呟いた。 その表情ですらも、香穂子は美しい。夕陽がよく似合う、愁いを帯びた横顔だ。 思わず見惚れてしまう。 女性に見惚れてしまうなんて、香穂子が初めてだった。 甘い緊張が胸を支配する。 苦しい。 こんなにも恋しい気持ちを誰かに抱くなんて、吉羅は初めてだった。 「…今から…、時間はあるかね?」 「はい」 香穂子は少し困惑気味だった。 吉羅の冷徹過ぎる態度が気になっているのだろう。 香穂子が綺麗過ぎて苛々していたなんて複雑な感情を、言える筈がなかった。 「…だったら、食事に行かないか? 先ほどの埋め合わせをさせてくれないか?」 吉羅はあくまでも冷静を装いながら、本当は緊張をしているのを隠して言った。 すると香穂子は、ほんのりと微笑んで頷く。 「有り難うございます。では少しだけなら」 香穂子の言葉に、吉羅は、若干、ホッとした。 「じゃあ行こうか」 「はい」 さり気なくエスコートをすると、香穂子はようやく微笑んでくれた。 それはとても嬉しくて、吉羅は甘い笑みを浮かべた。 吉羅が先ほどのことを気にしてくれているのだろうか。 そうならばこんなにもロマンティックなことはない。 先ほどはあんなにも切ない気持ちになれたのに、今はとても幸せだと、香穂子は思わずにはいられない。 甘いロマンティックに、香穂子も幸せな気持ちになれた。 吉羅の車に乗り込み、お洒落をしてきたかいがあると思う。 吉羅は相変わらず話さないが、それでも先ほどよりもかなり柔らかな気分になっていた。 吉羅の横顔をちらりと見る。 先ほどの女性はいったい誰なのだろうか。 訊きたいが、なかなか訊くことは難しい。 香穂子は吉羅の様子をちらちらと気にしながら、切ない気持ちを持て余していた。
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