*恋する私服*


 スーツ姿の吉羅しか、香穂子は見たことがない。

 吉羅とは、プライベートでもよく逢うが、いつも仕立ての良いスーツを着ている。

 スーツしか持っていないのではないかと、疑ってしまうほどに、吉羅は毎回スーツだ。

 勿論、吉羅との接点は、土曜日にランチを一緒に取るのと、誕生日や香穂子がコンクールで賞を取った時に、お祝いしてくれるぐらいだ。

 それでも、他の生徒よりは親密かもしれない。

 香穂子にとってはプライベートでも、吉羅にとってはプライベートではないかもしれない。

 吉羅がいつもスーツであることが、如実に表しているのではないかと、香穂子は思った。

 そもそも吉羅の私服はどのようなものなのだろうか。

 想像するのも、スーツしか思い付かない。

 スーツしか考えられない人も珍しいと、香穂子は思った。

 吉羅の私服姿を見てみたい。

 そんな想いが、香穂子には強くある。

 吉羅の私服姿を見られるとき。それはプライベートで付き合っている相手と認めて貰えた証になるだろうか。

 そんなことを考えるからこそ、吉羅の私服姿を益々見たくなった。

 どうすれば、吉羅の私服が見られるのだろうか。従弟である衛藤に訊けば分かるだろうか。

 香穂子はどうしても吉羅の私服姿が見たくて、森の広場で衛藤を捕まえて、訊いて見ることにした。

 森の広場に行くと、衛藤が木陰で昼寝をしているのが見えた。

「衛藤くん」

 声を掛けると、衛藤は面倒臭そうに香穂子を見上げた。

「香穂子さんっ!?」

 香穂子の姿を確認するなり、衛藤は飛び起きる。

「どうしたの!?」

「あのさ、吉羅理事長のスーツ姿以外って見たことはある?」

「そりゃあ、生まれた時からの付き合いだから。まあ、物心ついたときには、暁彦さんは既に大学生だったけど」

 何を訊いてくるのかと思ったのか、衛藤は戸惑うような表情になる。

「最近は?」

「最近はトレーニングウェア姿は見たことがあるけれど。一緒にジムに行っているし」

 衛藤の言葉に、香穂子は心底羨ましくなる。

 吉羅とプライベートで一緒にいられるなんて、衛藤に心底、羨望する。

「良いね、衛藤くんは……」

 つい口についた言葉に、衛藤は香穂子を見た。

「じゃあ香穂子さん、ジムに一緒に来たら」

「え?」

 まさか、誘って貰えるとは思わなくて、香穂子は驚いた。

「良いの?」

「まあ、暁彦さんに確認を取らないといけないけど、大丈夫じゃないのかな」

 衛藤はあっさり請け合ってくれる。

 香穂子は嬉しくて、つい、笑顔になった。

 踊りたくなるほどだ。

「明日にでも行くから、トレーニングウェアを準備しておいて」

 トレーニングウェア。考えてみればそのようなものは持ってはいない。そもそもスポーツジムに行く習慣など、香穂子にはないのだ。

「トレーニングウェアなんて持ってないよ」

Tシャツとパーカーに、スニーカー、ジャージの下があれば、何とかなるんじゃないのかな」

「それだったら大丈夫だよ」

 香穂子はホッとして、笑顔になった。

「君たちはこんなところで油を売って何をしているのかね」

 感情など全く感じられない、吉羅の冷たい声が聞こえた。

「暁彦さん、ちょうど良かった。明日のトレーニング、俺と香穂子さんも連れていって」

「君たちはジムで何をする気なのかね?」

 吉羅は不機嫌そうに、腕を組んで、真っ直ぐ香穂子たちを見据えた。厳しい表情に、香穂子は困惑する。

「ヴァイオリンを演奏するには、体力が必要だからね。鍛えないと。だから、連れていってくれない?」

 やはり従弟というのは威力があると、香穂子は思う。

 素直に吉羅に甘えられるのだから。

「しょうがない。明日は、私の仕事も早く終わる。5時に駐車場で待っていたまえ」

 吉羅は溜め息を吐きながら言うと、香穂子をチラリと見た。その眼差しに、胸が甘くざわめいた。

「やった!」

 香穂子は喜ぶというよりも、ドキドキし過ぎてしょうがなかった。

「では、明日」

吉羅はクールに言うと、そのまま特別棟へと戻っていってしまった。 

 明日、吉羅とジムに行く。

 それだけで頭がいっぱいになってしまい、香穂子は練習が手に付かない程だった。

 

 吉羅とスポーツジムに行く。

 おしゃれをしたいと思うが、スポーツであるゆえに、そんなにも格好に気を配ることが出来なかった。

 香穂子は授業中も、ヴァイオリンの自主練習をしている時も、ずっと吉羅とスポーツジムに行くことばかりを考えていた。

 いよいよ、吉羅との約束の場所に行くと、スーツ姿の吉羅が姿を現した。

「日野くん、桐也、行こうか」

 ジムに行くまでスーツ姿だなんて、香穂子はがっかりしてしまう。

 まさかここまで徹底したスーツ姿なのかと思う。

 吉羅の車に乗り込み、スポーツジムへと向かう。

 確かに吉羅の車は、トレーニングウェアよりもスーツが似合うのが確かなのだが。

「トレーニングの後は肉だよね、暁彦さん!」

「そばにしておきなさい」

「暁彦さんは、本当にそばが好きだよな。そばばっか食べたら、そば星人になるよ!」

「そんなものはいるわけがないだろう」

 吉羅は溜め息を深く吐くと、呆れるように呟いた。

 車は、ビジネスで成功したものや、政治関係者、ショービジネス関係者などが通う、高級スポーツジムに向かった。

 こんなところは、一生行くことはないだろうと、香穂子が思ってしまうような場所だ。

「ここだと集中出来て良いんだ」

「なるほど」

 香穂子は衛藤の言葉に納得する。スポーツに集中出来るような環境がしっかりと整えられていた。

 セレブリティが多くいるようなジムの雰囲気に、香穂子はすっかり萎縮してしまっていた。

 手続きをしてくれた吉羅に礼を言った後、香穂子はロッカーに向かったが、何だかしょんぼりした。

 用意したTシャツ、パーカー、トレーニングパンツは、ごくありきたりな高校生が着るようなものだった。

 着替えて鏡を見て、香穂子は今更ながら、なんて子供なのだろうかと、自分でも強く思わずにはいられない。

 吉羅と全く釣り合わない。考えるだけで、香穂子はがっかりとした。

 

 着替えて衛藤の待つところに行くと、吉羅も同時にやってくる。

 本当に隙がないほどに素敵だ。

 高級スポーツブランドの黒いトレーニングウェアを着た吉羅は、スーツ姿と同じように完璧だった。

 香穂子は益々落ち込まずにはいられなかった。




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