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それだけ吉羅は完璧だった。 吉羅は、トレーニングウェアを着ても、“吉羅暁彦”を完璧に演じているのではないかと、香穂子は思わずにはいられない。 それほど、吉羅暁彦は完璧だった。 少なくとも香穂子にとっては完璧な男だと思えた。 だからこそ、香穂子は隙がない吉羅を、時折、遠くに思えてしまうのだ。 トレーニングウェアを着ようが、スーツを着ようが同じなのかもしれない。 香穂子は、吉羅をじっと見つめながら、そう思わずにはいられない。 自分とはなんと釣り合わないのだろうかとすら、思ってしまった。 「香穂子さん、やっぱりヴァイオリニストも体力勝負だからね。しっかりと筋肉をつけなきゃね」 「ということは、筋肉マシンを使ったほうが良いってこと?」 「そういうこと」 あっさりと言われてしまい、香穂子は真剣にマシンをじっと見た。 衛藤が言うように、マシンを使っての筋肉補強をしたほうが良いのかもしれない。 奮起して、香穂子は勇んでマシンに座った。 まるで戦場に赴くような固い表情の香穂子に、吉羅は苦笑する。 「日野くん、身体を鍛えるのは、精神を鍛えることにも繋がる。しっかりと鍛えたまえ。君もこれから、一流のヴァイオリンニストになりたいのであれば、しっかりとボディマネージメントはしなければならないからね。海外では、ボディマネージメントが出来なければ、自己コントロールが出来ないとして、落伍者の扱いを受けるからね。あくまでビジネスの世界ではあるがね」 外資で働いていた経験があるからか、吉羅は厳しく言った。 「それにビジネスのことを考えると、しなやかで美しい女性は、見た目も武器になる。ヴァイオリニストとしてやっていきたいのであれば、君もありとあらゆることを考えなければならないよ」 吉羅はピシャリと言う。 本当にこのひとは、あらゆることをビジネス視点でしか見ない。 それが香穂子にとっては、ことの他切ないのだということを、気づいているのだろうか。 香穂子はそんな想いを抱きながら、吉羅を見つめていた。 「じゃあ筋肉隆々になりますよ」 「脳みそまで筋肉にならないように、気を付けたまえ」 吉羅の言葉に、香穂子は拗ねるような気持ちになる。 筋肉隆々になって、吉羅をリフトしてみせると、バカなことを考えながらマシンについた。 吉羅には、香穂子がこっそりと抱く切ない恋心を、全く理解していないのだろう。 それはそれで、香穂子には痛い事実だった。 香穂子がマシンについて腕を鍛えていると、美しい女性トレーナーが姿を現した。 親しみやすいのに、見れば見るほど美しくて、筋肉も引き締まっている。とても綺麗な人だ。 「はじめまして、吉羅さんのトレーナーをしています。あなたを見るようにと言われました」 「よろしくお願いします」 「女性のしなやかな身体作りには、筋肉は欠かせないからね。だけど、過度の筋肉はダメかな。脳みそまで筋肉にならないようにするわね」 吉羅との会話を思い出し、香穂子は恥ずかしくなった。 「モデルさんだとか、女優さんなどは、しなやかな身体のために、筋肉をつけていらっしゃいますよ。ですから、日野さんも綺麗に筋肉をつけましょうか。決してムキムキにならない程度に」 「はい」 吉羅が、先程の会話の内容を言ったのは、恥ずかしかった。 「では基礎部分をお伝えしますね。日野さんは、マシン重点よりは、ワークアウトなどをされたほうが良いですね」 「ワークアウト?」 「ダンスやバレエ、スクワットなどを組み合わせた、全身運動ですよ。日本語で言うと、美容体操とでも言うのでしょうか」 ビジターにも関わらず、きちんとトレーナーがトレーニング内容を考えてくれるのが凄いと、香穂子は思った。 最初は、吉羅の私服が見たい、吉羅のプライベートを知ることが出来るから、ここに来たことを香穂子は反省してしまう。 きちんとトレーニングをしようと、香穂子は強く誓った。 香穂子はトレーナーに言われた通りのトレーニングをする。 「香穂子さん、随分と頑張るんた」 「筋肉のついた綺麗な身体は理想的だなって思ったからね」 「まあ、確かに女性の程よく筋肉がついた身体はきれいだよね。まあ、程よいって言うのが、ミソなんだろうけれど」 衛藤はしみじみと言いながら、香穂子を見た。 「やっぱりそうだよね」 吉羅の従弟だから言葉に説得力がある。香穂子は頑張ろうと、前向きな気持ちになった。 「頑張らなきゃ」 「じゃあ、俺も頑張る」 「一緒に頑張ろうよ」 香穂子が笑顔で衛藤に声を掛けると、衛藤も笑顔で頷いてくれた。 「有り難う香穂子さん」 ふたりで、トレーナーが組んでくれたメニューを消化する。 ふとトレーニングをする吉羅の姿が見えた。 トレーニングをする吉羅は、いつも以上に素敵に見える。 香穂子にとっては完璧すぎる。 うっとりするほどだ。 吉羅を熱い眼差しで見つめている女性もかなりいる。 気持ちはとても解った。 だが、吉羅をそんな熱い眼差しで見つめないで欲しいと、香穂子は強く思う。 どす黒い感情が心の底からわき上がり、香穂子はコントロールすることが出来ない。 「暁彦さんを見つめるモデルとか、女優くずれが多いんだよ。まあ、暁彦さんはいつも無視しているけれどね」 衛藤は日常とばかりに、さらりと溜め息を吐く程度だったが、香穂子はもやもやが取れない。 「香穂子さん、ほら、そんな顔はしない。だってそんな顔をしたところで、暁彦さんはなんとも思ってないし」 衛藤はさらりと言い、トレーニングを再開するように促した。 香穂子は頷くと、トレーニングを再開した。 もやもやしてもしょうがないのだ。 香穂子はそう言い聞かせて、トレーニングに集中した。 休憩をするために、ミネラルウォーターを飲みに行くと、そこに吉羅が、やってきた。 「日野くん、随分とトレーニングに精を出していたようだね。うまくいったのかね?」 吉羅は指して興味がないとばかりの声で、冷たく呟いた。 香穂子は再び重苦しい気分になり、黙りこむしかない。 「まあまあ、うまくいっています。衛藤くんが一緒なので」 香穂子が衛藤の名前を出すと、吉羅は不快そうに眉をあげた。 どんどん気持ちが切なくなった。 |