*恋する私服*


「あれ、暁彦さん」

 衛藤がスポーツドリンクを片手に戻ってきた。

「もうすぐここを出る。最後のストレッチをして、帰る準備をしなさい」

 吉羅は、香穂子たちにかなり冷たく言い放つ。いつも感情的にはならないから、冷たい印象を受けるのだが、今日はそれ以上だと、香穂子は思った。

 香穂子たちが憎いのだろうかと思ってしまうぐらいに、冷たい印象だった。

 この感情は、決して衛藤に発しているものではない。香穂子に対してだ。

 それが解るが故に、香穂子はより暗い気持ちになった。

 香穂子が、チラチラと吉羅ばかりを見つめていたことが、気に入らなかったのかもしれない。

 吉羅は余り見られるのが、好きではないようだ。

 香穂子は、吉羅を見つめすぎた自分を嫌悪しなが、俯いた。

「おすすめの蕎麦屋があるからね。そちらに行くから、支度をしなさい」

 吉羅は香穂子がしょんぼりとしても、何も気にはしていないようだった。

「日野くん、次、連れてくるときには、トレーニングに集中するようにしたまえ。ヴァイオリニストには、筋肉は必要だからね」

 香穂子が全くトレーニングをしていないように言うと、吉羅はロッカーに向かった。

 衛藤も同じようにロッカーへと向かって歩き出した。

 香穂子はひとり取り残されたような気持ちになりながら、ロッカーへと戻った。

 吉羅に不快な想いをさせてしまったのならば、香穂子はここで帰ったほうが良いと思う。

 シャワーを浴びて、身支度をしてフロントに行くと、既に吉羅と衛藤が香穂子を待ってくれていた。

 ほんのりと嬉しい気持ちになるが、同時に重くなった。

「さあ、蕎麦屋に行って、休憩する。着いてきなさい」

 吉羅は相変わらずスマートな立ち振舞いで、香穂子たちを蕎麦屋に連れていってくれた。

 蕎麦屋と言っても、落ち着いた雰囲気のところだ。

 遠慮しなければと重いながらも、香穂子はついつい着いていってしまう。

 やはり、なるべく吉羅のそばには居たかった。

 吉羅さえそばにいれば、それだけで幸せだからだ。

 衛藤と一緒に、おすすめの天ぷらの盛合せのざるを頼む。

「暁彦さんってストイックだよね、何事も。まあ、ジムの後のそばは、単に胃に負担させないためだろうけれど」

 衛藤は、もっとしっかりとしたものが食べたかったとばかりに、メニューをまだ見ていた。

「理事長は胃が悪いのですか?」

 吉羅は黙っている。

「昔から胃が弱いんだ」

「桐也、余計なことは言わなくて良い」

 吉羅はピシャリと言うが、衛藤は全く堪えてはいないようだった。

 強靭の胃の持ち主のように見えるのに、吉羅が胃が弱いなんて意外だった。

 香穂子は吉羅の新しい部分を発見できて、ほわほわとした気持ちになる。

 本当に恋というのは不思議だ。

 こうして相手の意外な部分を見つけては、楽しい気分になるのだから。

 吉羅がおすすめだといっているだけあり、そばは本当に美味しかった。

 香穂子は、重い気分だったのが、一気に吹き飛んだ気分だった。

 吉羅の蕎麦の食べ方も、きちんとマナー通りで、とても素敵だった。

 やはりマナーの出来ている男性を見るのは楽しいし、爽快な気持ちになる。

 香穂子は、吉羅を見つめるだけで、幸せで素敵な気分になる。

 吉羅と食事をするのは、初めてではないが、こうして様々な面が見られるのが、嬉しかった。

 従弟だからか、衛藤の食事マナーもとても綺麗だった。

 見ていると、吉羅を慕って憧れているのだと、香穂子は思った。

 ふたりの関係がとても羨ましい。

 香穂子は、ふたりを見つめながら、幸せで温かな気持ちになった。

 

 蕎麦屋で食事をした後、吉羅は香穂子の家の近くまで送ってくれる。

「理事長、なんだか、申し訳ないです。色々として頂いた上に、こうして送って頂いて」

「いつものことだから、気にしなくて良い。それに。桐也の家も近いからね」

 吉羅はさらりと言うと、香穂子の家の前まで車を走らせる。

「暁彦さん、香穂子さんをよく送っているの?」

 衛藤は探るようなニュアンスを見せながら呟く。

「食事をよく付き合って貰っているからね。そのお礼を兼ねて送っているよ。お前のお守りとは少しニュアンスは違うがね」

「暁彦さんは相変わらず辛辣だな」

 衛藤は苦笑いを浮かべながら言う。

 こうして三人でドライブをするのも、とても楽しい。

 香穂子はつい笑顔になった。

 車は静かに香穂子の家の前に停まった。

 楽しいドライブの時間もあっという間に終わってしまい、香穂子は寂しい気持ちになった。

「日野くん、では、また」

「はい、おやすみなさい。おきをつけて。今日は有り難うございました」

「香穂子さん、また、一緒に出掛けましょう」

「有り難う、衛藤くん。またね。今日は本当にどうもありがとう」

 香穂子がフッと微笑みながら礼を言うと、吉羅は少し厳しい顔になった。

 きっと大切な従弟をタブらかしているとでも思っているのだろう。

 そんなことは決してないのに。それが切ない。

 香穂子が車を降りると、吉羅は静かに車を出発させる。

 車の後ろ姿を見つめながら、香穂子は甘くて切ない気持ちになった。

 今日は吉羅の意外な一面を知ることが出来て良かった。

 だが、同時に吉羅に要らぬ誤解を与えてしまったようなきがして、香穂子はならなかった。

 吉羅に嫌われたかもしれない。

 誰かに嫌われてしまうことをこんなにも気にしてしまうことなんて、今まではなかったと言うのに。

 香穂子はそれが重苦しくて、心にのしかかるのを、強く感じていた。

 

 休みの土曜日。香穂子はヴァイオリンを集中して練習をする。

 練習といっても、ストリートプレイだ。

 聴衆の反応を見ながら、色々と試すのだ。

 この練習方法は、衛藤から学んだものだった。

 こうして練習をすると、香穂子は、心が解放されると同時に、力がつくようなきがした。

 それに、様々なひとに逢えるのも魅力的だった。

 勿論、吉羅にも。

 吉羅が仕事帰りの時が殆どではある。

 吉羅が通りかかるのが楽しみで、香穂子は練習していることもあるぐらいだ。

「日野くん、今日も熱心だね。良いことだ」

 大好きな艶のある声が聞こえ、香穂子は思わず振り返る。

 すると吉羅が私服姿で佇んでいるのが見えた。

 質の良いシャツに、仕立ての良いジャケット、そして品のあるジーンズを身につけている。

 吉羅は私服でも隙のない男だった。

 香穂子は思わず見惚れてしまっていた。




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