前編
最近、吉羅とはすれ違いが続いている。 お互いに忙しいからではなく、吉羅がかなりの多忙を極めているからだ。 香穂子は余り会えないのが切なくて辛い。 折角、恋人同士だというのに、全くそんな風に感じられないぐらいに、会えない。 相手はかなり多忙なひとだから仕方がない。 これに対して香穂子はといえば、ただの駆け出しのヴァイオリニストだ。 ソリストを目指して奮闘しているが、なかなかもがいている状態からは脱却出来ないでいる。 吉羅にはまだまだ追い付けていないのが実情なのだ。 今夜は久々に吉羅に逢える。 だがそれは、デートではなくて、あくまで仕事で逢うのだ。 音楽関係と財界が絡んだパーティに、ソリストのひとりとして呼ばれているのだ。 香穂子は、あくまで仕事であることを自らに言い聞かせて、ヴァイオリンを奏でることにした。 吉羅は相変わらず上質なスーツを隙なく着こなして、美しい女性や財界人など、華やかな面々と話をしている。 決して香穂子が入り込めない世界だ。 香穂子は切なく思いながら、自分が入れないことに、切ない苛立ちを感じていた。 様々なことに惑わされてはならない。香穂子はそれを念頭においてヴァイオリンを奏でる。 今はクールにヴァイオリンにく集中しなければならない。 香穂子はそれだけを思い、ヴァイオリンを演奏した。 パーティはあくまで仕事で来ていたから、楽しむということはなかった。 パーティが終われば、さっさと帰ろうと思っている。 香穂子はそう思いながら、片付ける。 吉羅に声を掛けようとも思ったが、これは仕事で来ているし、あくまで吉羅に迷惑をかけたくないと思っていた。 演奏が終わる度に、お腹が空いてたまらなくなり、香穂子は持ってきたおやつばかりをかじっていた。 なのにダルくて、貧血ぎみだ。 香穂子は体調の悪さに少し辟易していたこともあり、早目に引き上げようとも考えていたのだ。 不安定でいじけた気分になっていたのも原因かもしれない。 香穂子はナッツバーを持って、楽屋を後にする。 無性に食べたくなるから、持っておいたほうが良いと思ったのだ。 香穂子がとぼとぼと歩いていると、廊下の壁にスマートに寄りかかっている吉羅が立っていた。 「香穂子」 声をかけられて顔をあげると、直ぐに吉羅がやってきた。 何処か怒っているように思える。 「……吉羅さん……」 「どうして、今日は私に声をかけて来なかったのかね? 待っていたんだが。それに、どうして名字で私を呼ぶのかね?」 吉羅はクールに何処か責めるように言う。 「仕事がらみですから……。後は、吉羅さんのお邪魔になってはならないかと思って……。本当にそれだけなんですよ……」 香穂子が静かに呟いて笑うと、吉羅は眉を潜める。 「久し振りに逢えるんだから、私に声をかけてくれて構わないんだ。君は変な気を遣いすぎる。この後の時間は私が貰うが、構わないかね?」 「はい」 こうして誘って貰えることを、心の何処かで期待をしていたから、香穂子は嬉しくて笑った。 「じゃあ行こうか。私の家に……」 吉羅は優しいトーンで呟くと、香穂子の頬に手を置いた。 「香穂子、少し顔色が悪いがどうしたのかね?今日も、ヴァイオリンを演奏している時に、かなり気分が悪そうだったが」 「大丈夫ですよ。本当に。だって、こうしてナッツバーを隠して持っているぐらいですから」 香穂子が笑顔で呟くと、吉羅は心配そうに慈愛の滲んだ瞳で見つめてきた。 「だったら良いが、余り無理はしないようにね。君はいつも無理をしがちだからね……。香穂子、最近は忙しくて君の様子をきちんと見ることが出来なかったから、それもあるかもしれないが……」 吉羅にこうして心配して貰えるのは、やはり嬉しい。 香穂子は笑顔で礼を言った。 「さあ、行こうか」 吉羅が手をさしのべてくれたときだった。 不意に視界が歪んで暗くなる。 貧血だ。 何もこんなときに起こらなくても良いのにと思いながら、香穂子はそのまま一瞬倒れ込みそうになる。 「……おっと」 吉羅の逞しい腕にしっかりと抱き留められて、香穂子は倒れ込まずに済んだ。 「……あ……」 香穂子がぼんやりとしていると、吉羅は厳しい眼差しを向けてきた。 「やはり、具合が悪いんじゃないか……。君は全く、どうしてそんなに隠そうとする」 吉羅は静かに言ったが、かなり怒っているのは確かだった。 「香穂子、家に送るのではなく、うちで休ませることにするから、そのつもりで」 「……はい」 吉羅の家よりも、ここからは香穂子の家のほうが本当は近い。 だが、香穂子は嬉しかった。 吉羅のそばにいられることが。 そして、看病をして貰えることが。 香穂子には嬉しかった。 「掴まりなさい。車までいこう」 「はい……」 吉羅に掴まらせて貰い、香穂子はなんとか駐車場まで歩いてゆく。 「全く……、君はどうして自己管理が出来ないんだ……。全く……」 吉羅は悪態を吐くが、それが心配と優しさの裏返しであることは、香穂子はよく分かっている。 車まで連れていってくれた上に、吉羅は紳士らしく香穂子をシートに座らせてくれる。 「シートベルトは私が行うから、君はじっとしておきなさい」 「ありがとうございます」 香穂子がじっとしていると、吉羅が静かにシートベルトを緩めに締めてくれた。 きちんと麗しく着こなされたスーツから、柔らかなムスクの香りがする。香穂子の大好きな吉羅の香りだ。 大好きな香りだ。 「……静かにしていなさい。直ぐに着くから。本当は君の家に送るほうが近いんだろうけれどね。そこは、私のわがままを聞いてくれ」 「はい。私もその方が嬉しいですから……」 「なら、今夜はゆっくりと休みなさい」 「ありがとうございます……」 吉羅のそばにいられる。それだけで、香穂子は具合が良くなるような気がした。 だからだろうか。 気分の悪さは治まって、逆にお腹が空いてきてしまった。 香穂子はナッツバーをバッグから取り出すと、それをパクついた。 「……気分が悪いのでは、なかったのかね?」 「……治まったらお腹が空いてしまって」 香穂子はばつの悪い気分になりながら、吉羅を見た。 「何処かで食事をするかね?」 「そこまでは。ナッツバーで充分ですから」 「しょうがないね、君は」 吉羅は苦笑いをしながら、車を自宅へと走らせた。 |