1
ヴァイオリンを弾いていると、いつも華やいだ気分になる。 その音を聴いているだけで、気分が高揚する。 ヴァイオリンが大好きな男性と自分を繋ぐ唯一の手段だからだろうか。 吉羅とはいつもヴァイオリンを通じてな交流しかない。 理事長と生徒。 その枷はなかなか取れない。 せめて大学にいけば取れると思っていたのに、それはなかった。 あくまでも吉羅は香穂子を生徒としてしか見てはくれない。 高校生の頃から、週一度以上はふたりだけで出かけてきたというのに、吉羅とは恋人未満のまま。 友人でもない。 ましてや恋人でもない。 純粋な理事長と生徒の関係でもない。 あの危ういバランスの中の関係をなんと言えば良いのだろうか。 それ程までにふたりの関係は微妙なバランスだった。 ファータが見える同胞。 ただそれだけだ。 吉羅はそれ故に、香穂子に全面サポートをしてくれている。 芸術家に援助をするパトロンのようなものだ。 本当にそれだけの関係。 香穂子は、何時になれば報われるのだろうかと、ずっと考えていた。 お互いに携帯電話でメールをする関係ではある。 だが携帯電話で長々と話す関係ではなかった。 携帯電話がメールの着信を知らせてくれた。 香穂子が確認をすると、吉羅からだった。 アンサンブルコンサートのチケットが手配出来た。 明日の7時開演だ。 如何かね? 吉羅 何時もなら、かなり早い段階でコンサートの誘いがあるのだが、今回に限っては、本当にギリギリだった。 恐らくは思いがけずに手に入れたチケットなのだろう。 吉羅と出かけることは、香穂子にとっては最重要なことであるから、直ぐに返信する。 理事長、有り難うございます。 是非、ご一緒させて頂きます。 日野 あくまで吉羅は理事長だから、香穂子はいつもそれらしい文面でメールを送る。 吉羅暁彦への礼儀だと思うからだ。 兎にも角にも、吉羅からのお誘いメールはとても嬉しい。 明日はどのような服装をして行こうか。 どのようなメイクをして行こうか。 そんなことを香穂子は考えてはにっこりと微笑んだ。 とっておきのワンピースと、薄くはあるがきちんと化粧をして、香穂子は大学へと向かった。 いつもよりも華やいだ気分になる。 吉羅と逢える。 ただそれだけなのに、香穂子はスキップをしたくなるほどに、嬉しかった。 吉羅に逢えるからか、いつもよりもヴァイオリンの出来が良いような感じがする。 レッスンもスムーズに進んだ。 これは恐らく吉羅パワーといったところだろうか。 恋するときめきというのは、想像以上のパワーをくれるのだと、香穂子は思った。 学院の高等部の理事長室へと向かう。 「理事長、日野です」 「入りたまえ」 吉羅の声に導かれるように中に入ると、そこには音楽科の制服を着た生徒がいた。 愛らしいまだあどけなさが残る女生徒だ。 「こちらの生徒が、君と是非逢いたいと言っていてね。今夜は彼女をアンサンブルコンサートに連れて行くから、君も是非にと思ってね」 「日野先輩、はじめまして! 日野先輩のヴァイオリンが大好きなので、私、どうしてもお話したくて、理事長にお願いしました!」 生徒は本当に純粋なまなざしを輝かせながら、香穂子を見つめている。 本当に可愛いらしい。 少し前の自分を見ているようだった。 「はじめまして。そう言って貰えるととても嬉しいです」 有り難いとは思う。 眩しいほどに純粋な気持ちに、香穂子は懐かしくてたまらなくなる。 だが、かなり複雑な気分だ。 吉羅は彼女に目を掛けて、興味対象から自分を外してしまうつもりだろうか。 それならば余りにも切ない。 そのためにここに呼ばれたのではないだろうかと、香穂子は複雑な気持ちで思っていた。 「すみませんっ! 遅れました!」 ノックも中途半端に、がたいの良い青年が慌てて理事長室に入ってきた。 「もう、遅いよっ!」 女の子はしょうがないとばかりに、男子生徒を叱っている。 ふたりはまるで可愛い恋人同士に見えた。 「遅くなりました」 「もう少し静かに来たまえ。何だか以前を思い出すね」 吉羅は微苦笑しながら香穂子を見た。 「では揃ったところで、みなとみらいホールに向かおうか。君たちも演奏をしっかりと聴くように。日野君に訊きたいことがあれば、後で質問する時間を設けよう」 「はい」 ふたりは些か緊張しているようで、香穂子を見つめた。 「日野君、ふたりは今度、学院代表でアンサンブルに参加して貰うことになっている。どうしても伝説のアンサンブルを作った日野先輩に話を訊きたいと言ったものだからね」 「こうして機会を与えて下さった理事長に感謝しています、ね」 元気な女子に少し圧倒されがちの彼は、香穂子を照れるようにじっと見つめてきた。 「もうっ! 日野さんに見とれていたでしょう!?」 女の子のツッコミに、男の子はタジタジになっていた。 「では出かけるかね。君達はあくまで勉強であることを忘れないように」 吉羅は静かに言うと、先に歩いていく。 吉羅はもう次の才能を育てていこうとしているのだろうか。 嫉妬をしてもしょうがないのは解ってはいるが、いつか自分が目を掛けられなくなるのが怖くなる。 吉羅は後部座席に先ずは音楽科の生徒を乗せて、香穂子はあくまで助手席に座らせる。 みなとみらいホールに着くまでの短い間、香穂子は生徒たちの質問を受けた。 ホールでは、香穂子、吉羅、女子生徒、男子生徒の順番で座る。 アンサンブル演奏にいつしか夢中になり、香穂子は様々なものを吸収していった。 演奏に夢中になっていると、不意に吉羅がこちらを見てくれていることに気が付いた。 何だか照れくさくなる。 同時に吉羅が見ていてくれたことが、とても嬉しかった。 演奏が終わり、四人でカジュアルイタリアンの店に入る。 いつものレストランよりもくだけた感じが良かったし、味も申し分なかった。 レストランで食事を取りながら、アンサンブルの話をする。 「彼は物凄く日野さんに憧れているんです。後、月森さんにも」 女子生徒の言葉に、男子生徒も頷く。 「お二人が入ったアンサンブルを見て、学院を志したんですから」 そう言って貰えるのはとても嬉しい。香穂子は笑顔になった。 「有り難うございます。とても嬉しいです」 「日野さんは、月森さんのように留学はされないんですか?」 女子生徒の何気ない一言に答えようとした時、吉羅が口を挟んだ。 「大学では充実したプログラムを受けて貰っている。留学の必要がないほどにね」 吉羅は冷徹に言う。 「そう、なんです。今のところは考えてはいません」 香穂子は、吉羅がどうして口を挟むのかが解らないままで、にっこりと笑った。 食事の後、未成年の生徒たちが優先とのことで、高等部の生徒たちを順番に送っていくことになった。 ふたりとも都内の生徒だから、都内に出てから香穂子の住む横浜に戻ることになる。 「理事長、ここからうちはかなり近いですから、ひとりで帰ることは出来ますよ。わざわざ横浜に戻ることになりますから…」 「いいや。送って行こう。君が早く家に帰りたいのならば話は別だがね」 「そんなことはありません」 吉羅のそばにいたいのだから、むしろその逆だ。 もっと一緒にいたかった。 「だったら君を送っていく」 「はい…」 結局は香穂子も送って貰うことになった。 |