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金澤が喉の手術のために渡米をする前日、香穂子と吉羅と三人でささやかな壮行会が開かれた。 コンクールメンバーを交えた壮行会は既に終わっており、その時来られなかった吉羅を交えて、今日は三人で静かな会を催すことになっている。 吉羅に逢えるからと、香穂子はいつもよりも念入りにお洒落をして、約束の場所に向かう。 シックな黒いワンピースに、大人びたハイヒール、化粧の代わりにほんのり色付くリップを唇に引いた。 今日は吉羅が選んだ、大人の雰囲気が滲んだジャズバー。いにしえの横浜の様子を伝える、とても雰囲気の良い場所だと聞く。 姉曰く、そんな場所には、本命の恋人を連れてしか行かないとのことだが、今夜は生憎女子高生、音楽 教師、学校法人理事長と、全く色気のない組み合わせではあった。 ジャズバーの最寄り駅に来ると、吉羅の後ろ姿が視界に入る。相変わらず隙がない姿だと思う。いつもよりはカジュアルだが、相変わらずのスーツ姿だし、独特の甘くて冷たいフェロモンを放っている。 流石に今日は飲むのを解っているらしく、いつもは車人間である吉羅も、電車らしい。 香穂子はドキドキしながら吉羅のほんの後ろまで近寄る。 だが、なかなか並んで歩くことなんて出来るはずはなかった。 香穂子の気配を感じ取ったのか、不意に吉羅は振り返った。 「…日野君か…」 「はい。こんばんは。理事長も今なんですね」 「遅刻するなんて有り得ない」 吉羅はキッパリと言い切ると、香穂子に並ぶように歩く速度を落としてくれる。 「それ、金やんに言って下さいよ。きっと誰よりも遅いと思いますよ」 香穂子はくすくすと笑いながら吉羅を見上げる。 吉羅もまたその通りだとばかりに唇に薄い笑みを浮かべた。 最近、以前に比べると随分と笑ってくれるようになった。学院では相変わらず、かなり冷徹な理事長ではあるが、香穂子への表情は柔らかくなりつつある。 バレンタインデーに告白を言葉では出来なかったが、チョコレートとチェシャ猫の置物をプレゼントした。ホワイトデーには、オーデトワレをプレゼントされて、今も香穂子はそれをつけている。 甘いのにどこか大人びた香りのトワレは、今や香穂子のお気に入りだ。 吉羅と会う度につけている。 あくまで付き合ってはいないので、デートとは言えないが、それでも一緒に出掛けている。 香穂子はほんの半歩遅れて歩いていると、不意に石畳の間に躓いた。 「きゃっ!」 お約束にも躓こうとしたところで、これまたお約束にも吉羅の腕に抱き留められた。 「全く君は…。馴れないハイヒールなどを履くからだよ…」 吉羅はうんざりしたように溜め息を吐くと、香穂子の姿勢を整えてくれる。 「有り難うございます…」 吉羅のために背伸びをして履いたハイヒールが仇になってしまうなんて、思いもよらなかった。 「金澤さんのためにハイヒールを履いたのか?」 相変わらずクールで、淡々とした口調で話して来る。 香穂子はその余裕が切ない。 吉羅の瞳を覗き込んでも、相変わらず冷たいままだ。 何を考えているか決して見せない大人のスマートな感情。 ストレートに感情を出してくれるひとならば、とても分かりやすいのに。 香穂子はこころのなかで、何処か重苦しい溜め息を吐いた。 「いいえ。金やんのためではないです」 このハイヒールも、このワンピースも、総て吉羅のために身に着けたというのに、解っては貰えない。そこがどうしようもないほどに苦しい。 香穂子は恋故の息苦しさを感じながら、再び歩きだす。 「きゃっ…!」 馴れないハイヒールのヒール部分が石畳の溝に沈み込み、香穂子は再び躓いてしまう。それをまた上手く受け止めてくれたのが吉羅だ。 「…全く…。君のその足下の危うさはどうにかならないのかね?」 低くよく通る声は甘さは殆どないどころか何処かしょっぱくて、香穂子はまた躰が地中にめり込んでしまうかと思うほどに、落ち込んでしまった。 「お洒落をするのは良いことだがね。もう少し馴れてからにしたほうが良い」 「ご迷惑を掛けてすみません」 折角、こっそりと吉羅のためだけにお洒落をしたというのに、それを分かっては貰えずに、香穂子は泣きたくなる。 不意に吉羅の大きな手が香穂子の手を包み込んだかと思うと、しっかりと繋がれる。 熱くて力強い男の包容力溢れる手に、別の意味で呼吸困難になる。 ドキドキしながら吉羅を見上げると、いつものようにクールな横顔だったが、何処か華やいだ色を滲ませていた。 「これ以上躓かれては困るからね」 吉羅はあくまでいつも通りに呟くが、言葉の端々に温かさを感じられる。 「あ、有り難うございます」 胸の奥が甘く震える。ドキドキして苦しい筈なのに、何処か華やいだような気がした。 吉羅と香穂子はお互いの指をしっかりと絡ませあわせる。 吉羅の横顔をチラチラと見つめれば、いつも通りに感情が出ていない。 吉羅の気持ちが上手く読み取れなかったが、指先の強さが幸せをもたらしてくれた。 何も話すことはなかったが、ただ一緒に歩いているだけで、香穂子は嬉しくてしょうがない。 「日野君、君はいつもと違うね。今日だけは」 今日だけは。だなんて吉羅らしい。香穂子は半分だけ憤慨しながら、軽く吉羅を睨み付けた。 「今日はいつものように私に挑戦的ではないし、いつものように子供じみてはいない」 吉羅はどこか愉快そうに話すと、目を柔らかく細めた。 「吉羅さん、それは私がいつも吉羅さんに挑戦的で、しかも色気も何もないってことですか?」 やはり子供としてしか見られてはいない。予想はしていたが何処か寂しい。 香穂子はずっと男として吉羅を見ていたのに、吉羅は3歳児同然に見ているのが、哀しかった。 「吉羅さんにかかると、私はオムツをした子供と同じみたいです」 香穂子がわざと唇を尖らせると、吉羅はフッと何処かやるせない笑みを浮かべた。 ふわりと風が流れて、オーデトワレの香りが舞い上がる。 吉羅がプレゼントしてくれた香り。 特別な時にしか着けないようにしている。香穂子にとっての特別な時というのは、やはり吉羅に逢う時だ。 吉羅に逢う時にしか着けないというポリシーは、切ない女心の表れであった。 「…子供とは思ってはいないよ」 吉羅は落ち着いた艶やかな声で呟くと、香穂子をちらりと見つめる。 感情が冷たいオーラで包み込まれている。だが瞳の奥底で、或いは言葉の端々で感じられる、吉羅の優しくも慈しみある感情に、香穂子は魂を掻き乱された。 子供と思っていないのなら、これほど嬉しいことはない。 いつも何処かで子供だと思われていないかと、ずっと切なく思っていた。 「…子供と思われていないのが…、嬉しいです」 香穂子がはにかんで呟くと、吉羅は僅かに口角を上げる。 「思ってはいない、少なくとも制服でない時はね」 「制服だと思っているんですか!?」 「…さあね」 吉羅はさらりと大人の男らしい受け応えをすると、真っ直ぐと前を見る。 「日野君、金澤さんの送り出しだから、お洒落をしたのかな?」 「それは…違います。私は…」 心臓が飛び出てしまうのではないかと思いながら、香穂子が吉羅を見上げると、遠くから馴染みある豪快な声が聞こえてきた。 「吉羅! 日野!」 金澤の姿を視界に認めた瞬間、吉羅は香穂子から手をするりと離す。 離されると同時に、ほんのりと温かかった感情が、急激に冷やされるのを感じた。 |