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「金澤さん」 吉羅は何もなかったかのように言うと、金澤に早足で近付いていく。 香穂子は見捨てられた気分になって泣きそうだった。 少し温かさが見えたかと思えば、いきなり冷たくされてしまう。 感情の温度差に、香穂子は胸がキリキリと捩じられるように痛んだ。 少し遅れて、香穂子は慎重に歩く。 躓いても、吉羅が抱き留めてくれないのが、解っていたから。 吉羅と並んで歩いていた時には、燥ぎ過ぎて足元を気にする余裕などなかったけれども、今はその余裕があるからか、香穂子は躓くことなく歩いた。 「こんばんは、金澤先生」 香穂子の姿を見るなり、金澤は眩しそうに目を細める。 「日野、お前もやっぱり年頃なんだな。制服と違って、何か大人な雰囲気というか…。“馬子にも衣装”だな」 「金やんそれ褒めてないって」 「そうか? 俺には最高の褒め言葉だと思うんだけれどな」 「もうっ」 金澤と香穂子はお互いに顔を見合わせると、思わずくすくすと笑ってしまう。 その様子を、吉羅は何故か咎めるように見ていた。 「お二人とも、予約時間です。店に入りますよ」 「ああ、すまん」 「はい」 吉羅はいつもよりもより刺々しいような視線と言葉を、香穂子と金澤に投げ付けると、ひとりでさっさとなかに入っていってしまった。 「おーお。日野、急ぐぞ」 「あ、はいっ」 吉羅の背中を見ていると、胸が軋んで来る。香穂子は総てを否定されたような気がして、また、こころがどんよりと曇ってしまう。 三人が案内されたのは、開放感があるテーブル席で、ゆったりと音楽を楽しめるようになっていた。 不意に吉羅の携帯電話が鳴り響き、話を始める前に立ち上がる。 吉羅は「失礼」と中座し、レストランの端へと歩いていってしまった。 金澤とふたりきりになると、ふいに寂しさを感じる。 「な、日野。その格好、吉羅のためにしたんだろ?」 金澤は優しい口調で鋭く指摘をするものだから、香穂子は耳まで真っ赤にさせてしまう。 「そ、そんなことはっ」 「あるんだろ?」 動揺するような香穂子に、金澤は余裕を持った表情で微笑む。 「な、日野、あいつああやっていつもそつない対応をするけれどな、本当は本気の恋なんてしたことねーんだよ。だから、お前さんをどうやって扱って良いかが分からずに、ああいう冷たい態度を取るんだよ。ま、俺が来るまでは、アイツはお前と手を繋いでいたところを見ると、ふたりきりなら何とかなるのかなとは、思ったがな」 可愛い後輩と生徒を思いやってくれているかのように、金澤の言葉もまなざしもこの上なく優しい。 じんわりと温かな気分になる。 「…あれは…、私がハイヒールに馴れなくて直ぐにコケてしまうから、吉羅さんが見兼ねたんですよ」 香穂子が溜め息を軽く吐きながら言うと、金澤は目を丸くする。 「はあ? お前さん、どこまで節穴なんだよ。吉羅は女の扱いは確かに上手いし、スマートだ。だがな、躓きやすいからといって、女と手を繋いで歩くようなヤツじゃねーぞ」 「…え…?」 金澤は呆れたように溜め息を吐くと、急に頭を掻き出す。 「ったく、アイツも良い年だというのに焦れったいヤツだぜ。高校生以下だな、恋愛スキルは」 金澤は後輩を哀れむような見守るような、そんな愛情を見せながら言う。 「え? あっ、あの」 金澤が言っていることが、香穂子には俄かに信じることが出来ずに、ただ甘く動揺することしか出来ない。 「だからな」 金澤はまた呆れたように溜め息を吐くと、「どうして渡米前日まで、恋愛下手な後輩と生徒を心配せなならんのかなー」と、半ばヤケクソに呟いていた。 「吉羅はお前を充分に女として意識しているから心配するな。さっきも俺に妬いていたぐらいだからな」 金澤の言葉が、俄かに信じられない。香穂子はそんなことはないと思いながらも、華やいだ気持ちになった。 「そんな、信じられないです…」 「信じるも信じないも本当のことなんだからしょうがねぇだろうが…」 金澤がキッパリと言いきるものだから、香穂子は心臓を高ぶらせる。 「だから、吉羅に思い切ってぶつかれ。お前さんが素直な想いでぶつかれば、きっと上手くいくから、頑張れよ。いつもの負けん気でな?」 金澤と話していると、沢山の勇気が湧いてきて、こころがやる気に溢れてくる。 「はい、頑張ります!」 香穂子が元気溢れる声で言いながらしっかりと頷くと、金澤はまぶしそうに笑った。 「吉羅さんに子供だって思われないように、頑張ってみます!」 香穂子が力強く宣言すると、金澤はしょっぱい笑みを浮かべる。 「ああ。頑張れよ。お前にそこまで真っ直ぐ思われるなんて、吉羅のヤツは羨ましい限りだ」 「え…?」 香穂子が金澤の瞳を覗き込むように見つめると、何かを振り切るような静かな笑みを浮かべた。 「こっちのこと。頑張れよ。俺が帰国した時には、良い報告を待っているからな」 「はい!」 「よし、よし」 香穂子の明るい返事に、金澤は頷いてくれると、まるで幼い子供にするように頭を撫でてくれる。 ほんわりとした温かな感情がこころのなかに滲んできて、ほのぼのとした気分になる。 吉羅に触れられると全身が小刻みに震えてしまうほどに切なくなるのに、金澤に触れられると柔らかな気分になる。 不意に視界に吉羅の姿が入ってきた。厳しくも鋭い氷の刃のような視線を、金澤と香穂子に乱暴に投げて来る。 「アイツ、かなり嫉妬してるんじゃないか?」 「そ、そんなことはないかと…」 吉羅の視線が怖くて、香穂子は上手く答える事が出来なかった。 「お待たせしました。お二人とも」 吉羅はいつもと変わらない態度で金澤の横に腰掛ける。わざとなのかは解らないが、香穂子から一番遠い位置を選択した。 吉羅は何も気にならないとばかりに平然としている。 「なあ吉羅、最近、日野は大人とぽくなったとは思わないか? 俺たちみたいなオッサンと並んでもおかしくないぐらいの」 金澤の言葉を、香穂子は喉がからからになってしまうのではないかと思う程の緊張で聴く。 「…そうでしょうか…。確かに日野君は年頃のお嬢さんにはなってきたでしょうが、私にしたらまだまだ子供の雰囲気を漂わせたお嬢さんですよ。そんなことを言ってしまうと、日野君が可愛いそうですよ」 吉羅は香穂子などほんの少しも気にしていないとばかりに呟く。 こころをナイフで切り裂かれたような痛みを感じたが、香穂子は反論出来なかった。 いつもなら理不尽なことを言われれば反論出来るのに、自分が一番気にしている部分を指摘されると、反論出来ない。 それどころか笑えてすらくる。 「そうですね。私はまだまだ子供だから、金澤先生だとか、理事長とは釣り合わないです。残念ですけど」 声が震えそうになったのを何とか堪えて、香穂子は平然と笑う。 金澤が痛々しそうに見つめるのが堪えられなくて、香穂子は目を伏せた。 「まあ、吉羅が一番大人気ないということで、この話は終わりな」 「金澤さん…!」 吉羅が咎めるように言ったが、金澤はどこ吹く風とばかりに、飄々としていた。 「…全く…あなた方ふたりは…」 吉羅が怒ったようなまなざしを、香穂子にだけ投げているのを感じる。 どうして怒るのかが解らない。怒りたいのは、泣きたいのは、こちらなのに。 香穂子はこころを涙で濡らしながらも、ふたりの前ではずっと笑顔で居続けていた。 |