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眩しくて瑞々しい朝陽を瞼の奥で感じながら、香穂子はゆっくりと目を開けた。 「おはよう、香穂子。直ぐに支度をしなければ、金澤さんの見送りに間に合わないよ…」 吉羅の言葉に、香穂子は飛び起きる。時計を見ると、確かに急いで支度をしなければ間に合わない時間だった。 「す、直ぐに支度をしますっ」 香穂子はベッドから飛び下りようとして、ふと自分が全裸であることに気付いた。 「…あ…」 ギリギリまで吉羅に愛された記憶が蘇ってきて、香穂子は耳まで紅くさせる。 「ほら、早くシャワーを浴びて支度をして来るんだ。間に合わないからね」 吉羅は自分のバスローブを香穂子に渡してくれる。それを受け取ると、香穂子は蓑虫のようにバスローブに着替えた。 「直ぐに支度します」 「ああ」 香穂子はバスローブを着ると、ベッドから下りる。そのタイミングで、吉羅が手を引いて香穂子をバスルームへと案内してくれる。 「ゆっくりしてとは、流石に今日は言えないな」 「…そ、ですね」 吉羅は含み笑いをすると、バスルームから出ていった。 香穂子は慌ててシャワーを浴びると、手早く支度をする。 白い肌に沢山刻まれた所有の痕に真っ赤になりながらも、怒る余裕もなく支度する。 支度を何とか終えてバスルームから出ると、吉羅が直ぐに手を取った。 「行こう。時間は待ってくれないからね」 「はい」 吉羅の車に乗り込むと、何処かホッとする。 やはりタクシーよりも、誰が運転する車よりも、吉羅が運転する車が一番乗り心地が良かった。 別、外車だからというわけではなくて、吉羅が運転してくれるから、心地好いのだ。 ようやく落ち着いて、香穂子は安堵の溜め息を零す。 「やっぱり吉羅さんの運転は安心します」 「はは、随分と信用されたものだね」 吉羅は笑いながら、上機嫌のような笑みを唇に浮かべる。 「私は格別車に弱いわけではないですけれど、吉羅さんの運転は特別なんですよ」 「成田の往復にドライブのおまけをサービスしたくなるね」 「サービスして下さるととても嬉しいですけれど」 香穂子が屈託なく笑うと、吉羅もまた機嫌良く笑った。 「じゃあ考えておこうか」 吉羅の運転する横顔を、香穂子は上機嫌に見つめながら、ふと気付く。 昨日、金澤と一緒だった。 昨日と同じワンピースの香穂子を見ると、きっと怪しむどころか、様々な想像をするに違いない。 途端に、生々しい昨夜の情時を思い出してしまい、香穂子は耳たぶまで真っ赤にさせた。 金澤にはバレバレだ。 あのあと吉羅となにがあったかなどは。 指摘されるのが恥ずかしくてしょうがなくて、香穂子はうろたえてしまった。 「あ、あのっ!」 急に声を上げた香穂子に、吉羅は余裕すらある笑みを浮かべる。 「何だね」 「あ、あのっ! か、金澤先生にバレちゃうんじゃないでしょうか!?」 「昨夜のこと?」 吉羅の声は落ち着いているどころか、何処か面白がっている節がある。 「は、はい」 「ばれるだろうね」 吉羅はそんなことは気にしてはいないとばかりに、まるで他人事のようにあっさり言った。 「そ、それって、ま、拙くないのでしょうか?」 「私的には拙くはないよ。それに君が昨日と同じ服装ではなかったとしても、ばれただろうね」 吉羅は焦る香穂子がおかしいのか、何処か含み笑いすら浮かべている。 大人の男の余裕が、悔しくてしょうがない。 「ふ、服装が変わってないとしたら、何処を見たら分かるんでしょうか? 首筋についた痕とかですか…?」 香穂子は半分拗ねながら、前を向いて吉羅に訊く。すると吉羅は笑いを堪えているような表情をする。 「お、おかしいでしょうか?」 「…失敬…。自分の姿を鏡で見てご覧? 君はいつもよりも瞳が潤んでいて、いつもよりも肌が艶やかで輝いている。見る目のある男がちゃんと見れば、そんなことは解るものだよ」 吉羅は深みのある声で慈しみ溢れる口調で呟く。 頬を指先でさり気なく触れられて、こころがじんわりと甘い幸せで潤んでくる。 「…愛しい男に愛された女性というのは、内面から輝くものなんだ…。だから、私には君がとても綺麗に見える」 吉羅の声は優しいが意志のある強さを感じられる。ここまでハッキリと言われると、照れ臭さを通り過ぎて嬉しくなる。 「あ、有り難うございます」 「礼を言われるようなことは言ってはいないけれどね。私は本当のことを言ったまでだ。世辞の類を言うのは、昔から余り好きじゃないんだ。だから正直に思ったことしか、私は言わないよ」 吉羅はいつもよりも機嫌良く、話してくれる。 これも結ばれた魔法なのだろうか。 「今日の吉羅さんも、その素敵です」 「また言った」 吉羅はわざとらしく機嫌の悪さを装う。 「へ?」 「また“吉羅さん”と言った」 「だ、だって、吉羅さんは、吉羅さんじゃ」 拗ねた子供のような吉羅に、香穂子はうろたえながら言う。 「昨日教えただろ? 私のことは“暁彦”と呼んで欲しいと」 「で、ですけど、恥ずかしくて…」 香穂子が言葉を尻つぼみにしながら、恥ずかしさの余りに小さくなる。 「じゃあ返事はしない」 「えっ、あっ! そ、それは困りますっ!」 香穂子が慌てていると、吉羅は愉快そうに更に笑う。 「“暁彦”と呼んでごらん?」 「…あ、暁彦さん…」 「これからふたりきりの時は、名前を呼んでくれないと返事はしないからね」 「…はい…」 吉羅の横顔を見つめると、今まで見た事がないかのように機嫌が良く、屈託がなかった。 「…恋人にはちゃんと名前で呼んで欲しいんだよ」 「はい…」 恋人。その響きはくすぐったくもあり、幸せでもある。 香穂子は今までで一番幸せだと感じながら、ニッコリと微笑んだ。 成田に着いたのは、ギリギリの時間だった。 「香穂子、急ごう」 「はいっ」 車を降りると、吉羅としっかり手を繋いで、出発ロビーへと走っていく。 堂々としていれば良い。 ふたりは愛し合っている恋人同士なのだから。 ふたりで一生懸命走り、ようやく金澤の姿を視界に捕らえた。 「吉羅! 日野! こっちだ…!」 金澤は手を上げた瞬間、硬直してしまう。 複雑怪奇な表情になり手を繋いでいるふたりの姿を、次いで香穂子を見た。 「…吉羅…。…お前、ちょっと顔貸せ」 「良いですよ」 吉羅は香穂子から手を離すと、何処か挑戦的に金澤を見る。 ふたりは香穂子を置いて、柱の影に入り込んだ。 「吉羅っ、日野を送っていけとは言ったが、送り狼になれとは言ってないっ!」 「私と彼女は同意のもとで恋人になったんです。何の後ろめたさもないです」 吉羅がキッパリと言い切ると、金澤は溜め息を吐いた。 吉羅のこころを探るように見る。 「…覚悟は出来ているんだろう。お前のことだから…」 「出来ていますよ。彼女は全力で守ります」 吉羅は金澤に力強く宣言した。 どんな奇異な目で見られたとしても、必ず香穂子は守る。 それは決意が出来ている。 「…なら、良いんだけれどな…」 金澤は吉羅の背中を二、三回叩くと、無言の激励をしてくれた。 きっと最も信頼がおける先輩だからこそ、香穂子と手を取ってここに来ることが出来たのだ。 吉羅と金澤は、柱の影から出る。 「じゃ、俺は行くわ」 吉羅はさり気なく香穂子の手を握り、金澤を見送った。 「金澤先輩、上手くいくようにふたりで祈っていますよ!」 「金澤先生、上手く行きますように祈っていますねー!」 吉羅と香穂子は、搭乗口に向かう金澤に、何度も手を振った。 金澤が見えなくなると、ふたりはお互いに何処か寂しい気分で笑う。 「香穂子、行こうか。お腹が空いただろう? 何か食べたいものはあるかな?」 「イタリアンが良いですね」 「君の食欲をたっぷりと満足させる店に、では行こうか」 「もうっ、そんなに大食いじゃないですよー」 香穂子の抗議に、吉羅は笑いながら歩き出す。 ふたりにとって新たな一歩が始まった瞬間であった。 |