前編
初めて喪服を着た日を、鮮やかに覚えている。 あの日の空は何時になく透明に澄んでいて、どんな絵の具を使っても、どんな性能の良いカメラで撮っても表現できないほどの、明るい青だった。 死と生が同居する季節に、あのひとは死んだ。 教会の弔鐘も、一際透明に響いていたのを覚えている。 姉の葬儀の日。 余りにも早く、駆け足で人生を駆け抜けた美しいひとは、ふさわしい穏やかな秋の日に亡くなった。 だから秋は嫌いだ。 いつもあの日が近付くと、切ない程に人恋しくなり、後腐れのない相手との割り切った情事を繰り返していた。 あのひとがいなくなった日。 あのひとの温もりが永遠になくなった日。 この季節が来る度に、冷たくなったあの瞬間を思い出したくなくて、誰かの温もりを求めていた。 あの日だけは、誰かの温もりが欲しい。 だが、それが満たされない空しいものだと気付くまでにそんなに時間は必要とはしなかった。 空しいのに、誰かを抱かずにはいられない。 毎年、そんな日々が続いていた。 結局は後ろめたい気分になり、後味の悪さだけが遺る。 意味がない情事だった。 しかし今年は違う。 傍らには、私が愛して止まない愛しい少女がいる。 キスをするだけでも、手を繋ぐだけでも、この上ない温もりと幸せをくれる少女がいる。 少女というのは、些か、合わない言葉になっているのかもしれない。 私にとって香穂子は、紛れもない魅力的なひとりの女なのだから。 姉の命日の前日、吉羅は香穂子をデートに誘った。 姉が亡くなる前の、絶望的な白を思い出したくはなかったから。 香穂子と一緒にいれば、その記憶を消すことが出来るだろうから。 いつも以上にそばにいたくて、いつも以上に香穂子に触れたかった。 いつものように家まで迎えに行くと、香穂子は愛らしい白いワンピース姿で現われた。 最近、特に女らしくなってきたような気がする。 香穂子が女としての瑞々しい花を咲かせるのも、間も無くだと感じていた。 香穂子を助手席に乗せて、首都高の湾岸線を走り抜ける。 特に行く宛てなんてない。ただ香穂子がそばにいてくれれば、吉羅はそれで良かった。 「香穂子、何処か行きたい場所でもあるかな?」 「こうして暁彦さんとドライブするのが一番好きなんです。暁彦さんとドライブするだけで楽しいから、ここに行きたいっていうのが、余り無いんですよね」 香穂子が幸せそうに笑うと、吉羅もついつられて笑う。 「ただ一緒にいられたら、それで楽しいんです」 香穂子の素直な言葉に、吉羅は力強く抱き締めそうになる。 せめて温もりだけを感じたくて、香穂子の手をギュッと強く握り締めた。 今日はこうしてふたりでいたら何もいらない。吉羅は強く思っていた。 ドライブを楽しんだ後、香穂子が好きなイタリアンレストランで、ランチを取る。 「いつも凄く美味しいです!」 「ああ。沢山、食べると良い」 香穂子は元気よく頷くと、パスタやピザを勢いよく食べ始めた。 香穂子を見ているだけで、今日は姉の命日前日だということを忘れさせてくれる。 だが、今日と言う日は、姉のことをいつもよりも意識せずにはいられなかった。 やがて闇が下りて、香穂子を連れて自宅マンションへと連れていく。 今夜はひとりでいる時間を、なるべく短くしたかった。 ふたりきりだけの空間を長く共有したかった。 「今日の夕食はレストランじゃなくて、うちで取るデリバリーだから、申し訳ないんだけれどね。ただ味は補償するよ。ケータリングではかなり美味しいところだからね」 「それも楽しみです。私、暁彦さんの家でじっくり食事をするのも、凄く楽しみなんですよ」 「そうか、それなら良いけれどね。食後にはヴァイオリンを弾いてくれないか?」 「勿論です、暁彦さん」 香穂子はニッコリと笑うと、ヴァイオリンを吉羅に向かって掲げた。 今日の吉羅がいつもとは違うことを、香穂子は敏感に気付いていた。 いつも以上に手を繋ぎ、いつもとは違って何処か切ない表情をしている。 そばにいて、その切なさを取り除いてあげたかった。 ケータリング料理が届いた後、ふたりでセッティングする。 「こうやって準備するのって凄く楽しいですよね。暁彦さんと一緒だから楽しいのかな?」 香穂子はいつもよりも明るく振る舞いながら、充分に楽しむ。 「これ美味しいんですよねー。本当に」 香穂子はサラダに入っているえびを見ながら、早く食べたい余りに笑顔になってしまう。 「香穂子」 「…あっ…!」 背後から強く抱き締められて、香穂子は驚く余りに躰を揺らす。 「…暁彦さん…」 「少しの間、じっとしていてくれないか…?」 「はい…」 香穂子は静かに頷くと、前に回された吉羅の手を握り締めた。 切ない抱擁に香穂子は泣きそうになる。 吉羅の逞しくて温かな躰を感じながら、香穂子はゆっくりと目を閉じた。 暫く抱き締められた後で、吉羅はゆっくりと抱擁を解く。 「香穂子、すまなかったね」 「…私、暁彦さんに抱き締められるの大好きだから…その…何時でも…、抱き締めて下さい。私も嬉しいですから」 香穂子は真っ赤になりながら、たどたどしく俯いた。 「有り難う、香穂子」 吉羅は香穂子を一瞬抱きよせると、軽く鼻にキスをくれた。 「さて、食事にしようか。たっぷりと食べると良い」 「はい。有り難うございます」 香穂子は満面の笑みを浮かべると、食事のテーブルにつく。 何時でも何処でも抱き締めてあげたい。 吉羅のこころを癒すために、いつもそばにいてあげたい。 そして、香穂子自身も、何時でも抱き締めて欲しかった。 ケータリングしたとはいえ、料理は申し分なくて、香穂子はじっくりと味わうことが出来た。 こんなに美味しく食事が出来たのは、久し振りかもしれない。 吉羅と一緒に食べるだけで、本当は何でも美味しいのかもしれないが。 食事の後、ふたりで片付け、ゆっくりとした時間を過ごす。 香穂子は吉羅を膝枕しながら、ヴァイオリンを弾いた。 吉羅のリクエストは、いつもの“ジュ・トゥ・ヴ”ではなく、ラフマニノフの“ラプソディ”だ。 目を閉じて、無心でヴァイオリンを聴いてくれる吉羅のために、香穂子は一生懸命音を奏でる。 ヴァイオリンを弾き終わった後、香穂子は吉羅の髪を撫でた。 「…後少しで君を送らなければならないね…」 吉羅は切なそうに溜め息を吐く。 ひとりになりたくないのだろう。 香穂子も吉羅をひとりにしたくなかった。 「暁彦さん、今晩は…、一緒にいて良いですか…?」 「…香穂子」 吉羅は驚いたように目を見開き、心許無い少年のような顔をしている。 「一緒にいたいんです。私が。暁彦さんと朝までいたいんです」 本当は恥ずかしくて堪らないが、吉羅を愛しく思うこころが、香穂子に勇気をくれた。 「構わないのか…?」 「はい。うちはそんなに門限とかは厳しくないので電話をすれば大丈夫です…。今夜は、私が暁彦さんのそばにいたいんです…」 吉羅は躰を起こすと、香穂子を強く抱き締める。 「…有り難う…、香穂子…」 吉羅は香穂子の肩口に唇を寄せると、弱いこころを縋るように抱き締めてくる。 もっと頼って欲しい。 いつもは沢山吉羅に頼っているから。これぐらいしか愛するひとに返してあげることが、出来なかった。 吉羅をふわりと柔らかな力で抱き締めると、逞しい背中を撫でた。 吉羅のこころを晴れさせたかった。 暫く、ふたりは抱き合ったままじっとしていた。 お互いの愛を確かめるために。 不意に吉羅が顔を上げると、ソファから立ち上がる。 「君を抱きたい」 吉羅の言葉に香穂子は頷くと、ふわりと抱き上げられた。 |