*誘惑のワルツ*


 大学生になり、ヴァイオリニストとしてミニアルバムを作製することも出来た。
 よちよち歩きではあるが、着実に音楽の道を歩いているのが、ようやく実感出来るようになった。
 幸せな筈だ。
 自分にもそう言い聞かせている。
 だが本当のところは全く満たされてはいない。
 理由は解っている。
 吉羅だ。
 相変わらず週末はドライブを楽しんでいるし、一緒に食事会も楽しんでいる。
 だが、それだけなのだ。
 それ以上でも以下でもない関係なのだ。
 吉羅は香穂子に気にすることはなく、他の女性と出掛ける。
 それは恋愛感情など君には持ち合わせてはいないと言っているのと同じなのだ。
 だからこそ、息が出来なくなるぐらいに痛い。
 諦めたほうが良いのだろうか。
 しつこく待つのは無駄なのだろうか。
 香穂子は吉羅のことを考える度に泣きたくなった。
 今日は音楽関係者のパーティがあり、香穂子もヴァイオリニストとして呼ばれている。
 パーティでヴァイオリンを演奏することになっているのだ。
 そのパーティに吉羅も来ることは知っている。
 どうかひとりで来ますように。
 いつものように綺麗なひとと来ることはありませんように。
 そればかりを会場の隅で祈っていた。
 今回のパーティはかなり大々的に行なわれるもので、音楽界の名士のみならず、政界や経済界の重鎮も集まってくる。
 そんな晴れ晴れしい舞台で演奏するのは、ほんの少し気後れした。
 香穂子が吉羅のことばかりを考えていると、演奏者に対する説明が始まった。
「…準備時間が来るまでは、各自パーティを楽しんで下さい。人脈を作るのも良いですし、他の学生たちと交流の場にするのも良いですしね」
 担当スタッフの話をぼんやりと聞きながら、きっと今回も吉羅とは接点がないままに終わってしまうだろうと、香穂子は思っていた。

 名士たちが続々とパーティ会場であるレセプションルームへと吸い込まれていく。
 香穂子は、吉羅の姿をごく自然に視線で探していた。
 一際目立つ存在であるから直ぐに見つけることは出来るだろうから。
 吉羅が仕立ての良いスーツ姿で現われた時、香穂子のこころは甘くざわついた。
 切ないのに幸せで気持ちが良いだなんて感情は、吉羅以外の相手に抱くことなんて出来ない。
 今日の吉羅は完璧だった。
 寸分の隙もないぐらいに魅力的な大人の男性だ。その色香に、香穂子はくらくらした。
 だが、そんなうっとりとした気分も、直ぐに消え去ってしまう。
 吉羅が綺麗過ぎるぐらいの大人の女性をエスコートしていたのだ。
 ふたりは目配せをしあって微笑みあい、とても親密な雰囲気を出している。
 自分には入ることが出来ない世界。
 いくら手を伸ばしても、決して届かない世界だ。
 香穂子はこころが芯から冷えるのを感じながら、そっと目を伏せた。
 本当におにあいのふたりだ。
 香穂子にはほんの隙間でも入り込む余地は残されていないような気がした。
 なんて素敵なふたり。
 祝福されたように輝いている。
「やっぱり星奏学院理事長とあのお嬢さんの噂は本当だったんですね…。まあ、なんておにあいのふたりだこと」
 何の悪意もなく上品な女性たちは囁き合い、ニッコリと微笑んでいる。
 そうなのだ。
 吉羅がいる世界は選ばれた者だけしか住めない世界なのだ。
 香穂子は最後通告を受けたような気がして、一際影を深くさせた。
 吉羅は香穂子のまなざしに気付いたようだったが、視線が絡んだ瞬間に、何故か逸らされた。
 きっと大切な女性といるところを邪魔されたくはなかったのだろう。
 香穂子は八方破れの笑みを浮かべると、吉羅に背を向けた。
 吉羅のいる世界には行くことが出来ないから。もう目を閉じてしまったほうが、背を向けてしまったほうが、良いかもしれない。
 深く感じた。

 会場に入るためだけに、友人に同伴を願った。男と女の関係がないわけではない相手だが、後腐れのないところが良かった。
 会場に入って直ぐに香穂子の存在には気がついた。一際、清楚で麗しい花だったからだ。
 最近、逢う度に綺麗になり、吉羅を惑わせてくる。
 香穂子ももう年頃の女性なのだから当然だ。
 最近では、自分の想いを抑えることが出来なくなっている。
 香穂子が欲しい。
 出来ることならば生涯そばに置いておきたい。
 欲望が頭を擡げては、それをおさえつけていた。
 先ほど、香穂子がこちらを見つめていたのは気付いてはいる。
 だが人目から、わざと冷たい態度を取ってしまった。
 そうだからかは解らないが香穂子は一瞬傷付いたような瞳をした後で、吉羅を拒絶するように背を向けた。
 あの背中が脳裏に焼き付いて離れない。
 このまま香穂子が自分を拒絶して、離れていってしまいそうな気分なり、吉羅はいたたまれない。
 角界の名士と商談がてらの談笑をしている時ですらも、香穂子の背中の冷たさを思い出しては苦しくなる。いつもの切替えの早さと集中力でなんとか乗り切ることが出来たが、ずっと香穂子のことばかりを考えていた。
 付き合ってはいない以上、香穂子を束縛する理由はない。
 だから香穂子にずっとそばにいろとは言えなかった。
「…暁彦さん…」
 ハスキーないかにも色気のある声で囁かれ、隣を見ると今日共に来た女がいた。
「これから演奏なんですってね?」
「ああ」
「あなたの学院の秘蔵っ子、確か…日野さんって言ったかしら、彼女、綺麗な娘ね。あの容姿で、あれだけひとのこころに訴えるヴァイオリンを弾くのだから、人気は確実に出るわね…。瞬く間にあなたの手の届かないところに行ってしまうわよ…」
 まるで吉羅のこころを試すようなことを言われてしまい、胸くそが悪い。そんなことなど解っている。だから苦しいのだ。
 いつか香穂子が遠くに行ってしまいそうなことぐらいはとうに解ってはいた。
 だが、現実にそれが近いことを悟ると、心臓が破れてしまいそうになるほどに痛かった。
 以前に、“有名ヴァイオリニストになれば付き合うことを考えても良い”だなどということを言った。
 だがそうなれば、今までのようにふたりで出掛けることもなくなるだろう。
 それが辛い。
 あの笑顔になかなか逢えなくなるのが辛くてしょうがなかった。

「日野さん、次、お願いしますね」
「はい。解りました」
 香穂子は頷くと、静かにスタンバイをする。あくまでパーティに花を添えるだけなので、ステージではなく、レセプションルームの端でヴァイオリンを奏でる。
 この演奏が終われば、気分が悪くなったなどと適当に言って帰ろう。
 『顔を売れ』と吉羅なら言うだろうが、今はそんな気分になんてなれるはずがなかった。
 レセプションルームの端から吉羅の姿を確認する。
 綺麗な女性と談笑しているのが見えた。
 “付き合っていない”とあんなに堂々と言われたのだから、ヤキモチを妬く資格なんてないのに。
 香穂子はジリジリとした想いに、涙が出そうだった。
 演奏開始の合図があり、香穂子は目を閉じて雑念を払い除けると、ヴァイオリンを奏で始めた。
 奏でるのは恋の曲。
 吉羅が愛した“ジュ・トゥ・ヴ”。
 今までで一番切ない音が出てしまう。
 透明で綺麗なのに、少しも幸せにはなれない音。自分の音がそう思えてならなかった。
 今までで一番物哀しい音なのに、集中して奏でることが出来た。
 香穂子が“ジュ・トゥ・ヴ”を奏で終わると、想像だにしなかった大きな拍手が沸き起こった。
 香穂子が驚いて大きな口を開けていると、誰もが温かな拍手を惜しみ無く与えてくれる。
 吉羅を見ると、複雑な表情をしながら、香穂子を見ていた。
 拍手をくれて頷いてくれているが、どこか切ない表情を浮かべている。
 演奏を余りよく思わなかったのかもしれない。
 香穂子は深々と頭を下げると、静かにその場を辞した。
 ひとりになりたかった。

 香穂子がこの上なく甘く切なく恋のメロディを弾くのを聞き入りながら、改めて恋の曲を奏でるのがこの上なく上手いのだということを悟る。
 こんなに綺麗に奏でるヴァイオリニストに出会ったのは、生まれて初めてなのかもしれない。
 香穂子の奏でる音は、こころの奥深く、誰もが一番純粋に場所に届く。
 そこにいる誰もが、香穂子の奏でる音に共鳴していた。
 香穂子の演奏が終わると、誰もが感嘆の溜め息を上げる。
「…恋の曲の名手なのね…。こんなに綺麗にヴァイオリンを奏でる子は初めてだわ…」
 吉羅が連れてきた女性は、耳が肥えていることもあり、納得するように頷いた。
 誰もが惜しみない拍手を贈るなかで、吉羅は哀しいほどに切ない想いを抱く。
 香穂子は間も無くヴァイオリニストとしての地位を確立するだろう。
 そうなれば、吉羅の世界から出ていってしまうかもしれない。
 こころから離せない相手であることをしみじみと感じた。
 吉羅にとって大切な曲を、香穂子は奏でてくれる。
 誰よりも吉羅のこころを打つ“ジュ・トゥ・ヴ”だった。
 喝采を想定していなかったからなのか、香穂子は一瞬、惚けた顔をしていた。直ぐに姿勢を正して、深々と頭を下げた。
 顔を上げた瞬間の香穂子は本当に綺麗だった。
 無駄なものを総て削ぎ落としたような表情で、吉羅の魂を揺さぶる。
 香穂子は喝采に背を向けるように、静かにレセプションルームから出ていってしまった。
 吉羅はその背中を追いかける。
 余りにも心許無くて、抱き締めたくなるような背中を。





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