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吉羅と綺麗なあのひとこそ、約束の地に迎えられるのにふさわしいのかもしれない。 香穂子は寂しい想いを抱きながら、肌に心地好い夜風にあたる。 頭がある程度冷えたら帰ろうと思っていた時だった。 「日野君…」 優しい闇が似合う声が聞こえ、香穂子は振り返る。そこには今まで見たことのないような艶やかな優しい笑みを浮かべた吉羅がいた。 「…吉羅さん…」 「君に“ブラボー”と伝えたくてね…」 「有り難うございます…」 香穂子は素直に礼を言うと、美しい闇に浮かび上がる夜景を見つめた。 「…また、上手くなったね…」 「有り難うございます。こころを込めて演奏したので、それを解って頂いたようで嬉しいです」 「君の透明で温かい音色は、いつも私に届いているよ」 吉羅の言葉はいつもよりも温かく、誠実に香穂子のこころに響いて来る。 ふんわりとした温かな感情と同時に、どこか切なくて痛い感覚を覚える。 泣きたくなる感覚に、香穂子は息が出来なくなるのを感じていた。 香穂子が上手く言葉を紡ぐことが出来なくて、話す代わりに潤んだ瞳で吉羅を見つめると、手を柔らかく包み込まれた。 「…君の音は、いつも私に、温かさや優しさ、強さをくれる。何時までも私の元で奏でて欲しいとも思うし、私から羽ばたいていくべきヴァイオリニストだとも思う…。いつまでそばにいて欲しいだなんて、虫の良い話だと思ってね…」 吉羅は寂しさと深い愛を秘めたようなまなざしを向けると、握り締める手に力を込めて来る。 「…吉羅さん…。…私は、吉羅さんのそばにいてはダメなのだと思っていました。いつも綺麗なひとと一緒にいらっしゃるし、さっきも私が見つめれば…、視線を逸らしてきたし…」 香穂子は吉羅をまともに見ることが出来ずに、握り締められた手にただ力を込めた。 切ない想いを、香穂子は手に入れた力に込める。 まともに吉羅の視線を見ることが出来ない。きっとどうしようもない子供だと思ったことだろう。 どうしてこんなに年の差があるのだろうか。どうして子供何だろうか。 きっと吉羅は呆れ返っている。 そこまで思ったところで、吉羅に名前を呼ばれた。 「…香穂子…」 掠れた低い声はとても艶やかで、こころの奥が甘く乱される。 自分の名前なのに、特別な意味を持っているような気がした。 鼓動がおかしくなるぐらいに、喉がからからになるぐらいに甘い緊張を覚える。 顔を上げて吉羅の顔を見つめると、苦しげでいて何処か眩しそうに香穂子を見つめ返してきた。 「…私はずっと君にそばにいて欲しいと思っているよ。…私のそばにずっといて欲しい…」 吉羅の深みのある声を聴きながら、香穂子は心臓が痛くなる。 痛いのにどうしてこんなにも幸せを感じるのだろうか。 「…吉羅さん、私がそばにいて良いんですか? 私は子供だし…、吉羅さんがいつも一緒にいる女性のようには振る舞えないし…。…それでも、良いですか…? 私は…、吉羅さんがそばにいて見守って下さらないと、上手くヴァイオリンを弾くことが出来ない…」 香穂子が緊張で吐きそうになりながら言うと、吉羅はフッと微笑んだ。 「…香穂子、君は自分が“子供”だと思い込んでいるようだが…、私から見れば、君は誰よりも女性だよ。私を惑わせる唯一の女性だと言っても過言ではないよ…」 吉羅の言葉の響きひとつ、ひとつが、こころに響いていて幸せな気分になる。 「…吉羅さんのそばにいて良いんですか…?」 苦しい想いを声に乗せて、香穂子は震えながら呟いた。 その瞬間、吉羅は香穂子を激しく抱きすくめてくる。 今までにない激しくも熱い恋情を迸らせて、吉羅は抱き締めてくれる。 香穂子は嬉しくて息が出来なかった。 「…そばにいて良い…だなんて、偉そうなことは私には言えないよ。君にそばにいて欲しいんだから」 「…吉羅さん…」 吉羅もまた、切ない想いを抱いてくれていたことを知り、香穂子は嬉しくてその背中をギュッと抱き締める。 「…香穂子…」 今までこんなに愛しい声で名前を呼んで貰ったことはなかった。 嬉しくて、本当に嬉しくて堪らなくて、言葉に出来ない。 ただ熱い涙が一筋零れた。 吉羅は熱い吐息を香穂子の唇にかけると、両手でまだ幼さの遺る頬を包み込んだ。 唇を近付けられて、香穂子は素直に目を閉じる。 しっとりと甘いキスを受けると、躰のなかで欲望とロマンティックがいっぱいになる。 生々しくないまるで夢見るようなキス。 うっとりとする余りに、香穂子は頭をぼんやりとさせていた。 「…香穂子…君は自分が子供だと気にしているようだね…。君を私が大人にする。依存はない…ね?」 吉羅の魅惑的に輝くルビーの瞳を見せつけられれば、香穂子は魅入られることしか出来ない。 大人にする。 その意味が解らない香穂子ではない。 緊張の余り震えてはいたが、自分のこころの命ずるままにそっと頷いた。 「…行こうか…」 フッと吉羅は眩しそうに微笑むと、香穂子の手を引いてバルコニーからそっと出る。 誰にも見られないようにこっそりとしているようにも見えたし、見られても構わないようにも見えた。 「…あ、あの、連れの方は…!」 「連れ? ああ彼女か。お互いの利害が一致してここに来ただけだから、私がいなくなっても、さして気にはしないだろうね。会場に入るのが一緒だけだっただけだからね」 吉羅は特別なものなど何もないとばかりに淡々と呟くと、香穂子をホテルのフロントに連れて行く。 ドキドキが止まらなくて、落ち着かなかった。 「…香穂子、少し待っていてくれ」 「はい」 顔見知りのマネージャーに声を掛け、吉羅は手続きをしている。 マネージャーの表情を見れば、吉羅が上得意であることは間違なかった。 この後、吉羅に抱かれるのだと思うと、ドキドキする余りに、おかしくなる。 香穂子が勇気や覚悟を沢山かき集めながら、背筋を伸ばして吉羅を待った。 「…香穂子、待たせたね。さあ、行こう」 「…はい」 吉羅の横顔を見ていると、いつものように冷静な色しか見えなかった。 あくまで端整な横顔のままだ。 吉羅にまるで小さな女の子のように手を引かれて、客席へと向かうエレベーターに乗り込んだ。 エレベーターは静かに最上階に停まる。 吉羅はエレベーターの扉を開けるために、カードキーを差し込んだ。 するとセキュリティが解除され、香穂子は促されるままにエレベーターを降りる。 許された者にしか立ち入りが許されない場所。 吉羅は香穂子の手を引いて、客室へと向かった。 ホテルの下にあるレセプションルームでは、まだパーティが行なわれているだろう。 こうして吉羅とふたりで抜け出すことに優越感を感じながらも、どこか遠慮もあった。 「吉羅さん、パーティは良かったんですか?」 「パーティ? ああ。最低限のことはしているから、君は何も気にしなくて良いんだ」 「…はい」 吉羅は頷くと、カードキーで客室のドアを開ける。 「どうぞ」 「有り難うございます」 香穂子は恐縮しながら、部屋のなかに入る。 「わあっ!」 そこはロマンティックなスウィートルームで、みなとみらいの美しい夜景が見事に見ることが出来た。 ガラス張りのスウィートルームには、大きな開放感のあるベッド、そして最も夜景が美しく見える場所には浴室がある。 うっとりと何時までも見つめていたい。 そんな気にさせる夜景だった。 いつも見慣れている横浜の夜景が、今日は特別のように思える。 こんな客室に入ったことなど今までにはなかったものだから、香穂子は一通り探検を楽しんだ。 ソファのあるスペースに戻ると、吉羅がジャケットを脱ぎ、ネクタイを外していた。 ネクタイを器用に緩める吉羅の姿がなまめかしくて、香穂子はただじっと見つめる。 躰の芯が沸騰してしまうと感じるほどに、吉羅の仕草にこの上ない欲情を抱いていた。 なんて綺麗。 なんて艶やか。 欲望でぼんやりとしながら、潤んだ瞳で吉羅を見つめていた。 余りに熱い視線だったからか、吉羅はセクシィに笑うと、綺麗な指先を香穂子に差し出す。 「…おいで…」 香穂子は躰の奥が潤んでどうしようもなくなることを感じながら、その手を取る。 もう後戻りは出来なかった。 |