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「君はいらない」 こころが壊れてしまうかと思うほどのキツい一言だった。 あの場で泣かなかったのが不思議に思う。 家で泣いたが、翌日には何とか立ち直るふりをすることが出来た。 「君はいらない」 確かにコンクール参加者とのレベルの違いはかなりある。 学院の宣伝を兼ねたアンサンブルに参加させるわけにはいかないだろう。 横浜市が挙げての開港150周年の記念行事なのだから。 しかし、あの言葉はなんて刃だろうか。 吉羅理事にそう言われても、香穂子はヴァイオリンを練習せずにはいられない。 新しい理事吉羅が言うことを一番解っているのは、香穂子だからだ。 だからこそ少しでも溝を埋めたい。 他のコンクールメンバーと。 それには練習しかないのだ。 時間で埋められないのであれば、情熱が埋めてくれるかもしれない。 香穂子は、少しでもコンクールメンバーたちよりも情熱が勝っていれば、その溝は少しずつ埋めることが出来るのではないかと考える。 加地の知り合いには「時間の無駄」だと言われた。 だがそうは思いたくはない。 香穂子はただ真直ぐに練習をすることにした。 今日も書店でのアルバイトだ。 ヴァイオリンのことで親に迷惑をかけたくない。 それにただでさえ星奏学院に通っているのだから学費が相当かかっている。 これ以上は親には我が儘を言えなかった。 書店の地下には楽器コーナーがあり、そこには有料ではあるが練習ブースもある。 それを格安で借りられるのも、香穂子には魅力的だった。 香穂子の家は、防音などではないから、家に帰ってからはヴァイオリンを練習することが出来ない。 学院の練習室も、あくまで音楽科優先のため、普通科の香穂子はなかなか借りることが出来ないのだ。 だから書店の練習ブースは貴重だった。 香穂子が書店のレジに立っていると、苦手なふたりが何と揃ってレジに並ぶのが見えた。 吉羅理事と香穂子に「時間の無駄」だと言った男。 ふたりは仲が良いように話している。 どうかふたりのどちらにも会計が当たりませんように。 香穂子はそう思わずにはいられない。 だが、こういう時に限って、当たってしまうのだ。 「…いらっしゃいませ…」 香穂子は余り乗り気がない気分で言ってしまう。 吉羅暁彦が、洋書のビジネス本を持って、香穂子の前に現われた。 「…日野君…だったかな…? 君はここでアルバイトをしているのか…。アルバイトも程々にして、勉強に打ち込みたまえ」 吉羅は相変わらずピシャリと言う。 だが、香穂子は答えることなく、事務的に吉羅の会計をした。 「3890円です」 香穂子はカバーを掛けて、テキパキと書店員としての仕事を全うする。 「…有り難うございました…」 深々と頭を下げて、香穂子はホッとした。 あの青年と吉羅はふたりで歩いていく。 ふたりの会計が終わったところで、香穂子のアルバイトの時間が終わった。 直ぐにヴァイオリンを持って練習ブースに向かう。 香穂子にとってはヴァイオリンが弾ける楽しくて大切な時間だ。 香穂子がヴァイオリンを弾いていると、また、あのふたりに遭遇した。 こちらをじっと見ているのが解る。 だがなるべくふたりを無視することにする。 いちいち気にしてはいられない。 本当のことを言われるだけだからだ。 香穂子は溜め息を吐きたくても我慢をして、何とかヴァイオリンに集中した。 ヴァイオリンに夢中になり、練習時間が終わる頃、ふたりはいなくなっていた。 香穂子はホッとして、後片付けをして書店を後にする。 「日野君」 いきなり低い声で名前を呼ばれて、香穂子は顔をあげた。 吉羅理事がこちらをじっと見ている。 「こんな時間にひとりで帰るのは危ない。送って行こう」 「大丈夫です。今までひとりで帰ることが出来ていますから」 またキツい一言を言われたくはなくて、香穂子はやんわりと断った。 「理事として生徒の安全は確保しなければならないからね。車があるから乗りたまえ」 吉羅は有無言わせないとばかりの厳しいまなざしをむけてくる。 この厳しいまなざしに、香穂子は逆らうことが出来ない。 香穂子は仕方がなく、吉羅を見る。 「…解りました。送って下さいますか…?」 「ああ。こちらへ来たまえ」 「はい」 香穂子はさほど乗り気になれずに、吉羅の後をとぼとぼと歩いていく。 正直言って、これ以上へこんでしまったら、恐らくは再起不能になるだろう。 そう思いながら、香穂子は吉羅の後に着いていった。 吉羅の車はらし過ぎるランボルギーニだ。 香穂子はイメージにピッタリだと思う。 車に何とか乗り込むと、吉羅に家までを簡単にナビをする。 「…日野君…、君はヴァイオリンを練習するために書店でアルバイトをしているのかね?」 「…はい。書店でアルバイトをすると、練習ブースを格安に借りることが出来るんです。それが目当てなんです。後は、ヴァイオリン教室に通うにも、ヴァイオリンの弦を変えるのに使いますから。親には余り迷惑をかけるわけにはいかないですから」 香穂子は素直に言うと、車窓を見た。 「…それは感心だ。君は努力をすれば、より深みのある演奏が出来るタイプだからね。しっかりと練習にはげみたまえ」 「あ、有り難うございます」 まさか、吉羅が応援をするようなことを言ってくれるとは思わなかった。 香穂子は驚きながら吉羅を見た。 「私がこのようなことを言うのは意外かね?」 「あ、あの…」 言葉に詰まってしまい、香穂子は戸惑ってしまう。 「図星…か。君がそう思うのはしょうがないか…」 吉羅は僅かに苦笑いを浮かべる。 いつものようなクールな表情ではないことに、香穂子は驚いてしまった。 その表情を見て、吉羅はまた苦笑いを浮かべる。 「…私も笑うぐらいはする」 「…あ、ごめんなさい」 「君の演奏は、コンクールの最終セレクションで聴かせて貰った。ヴァイオリン技術はかなり未熟だ」 そんなことは言われなくても解っている。 吉羅の言葉は的を得たストレートなものであるがゆえに、香穂子にはかなり堪える。 躰が嫌な気分で震える。 また、息苦しくなりそうだ。 吉羅はそれだけ香穂子に不用意な緊張を与えてくるのだ。 本人はそれを解っているのだろうか。 心臓も躰も心も、何もかもが震えた時だった。 吉羅の唇が開かれて、香穂子は思わず震えて躰を硬くしてしまう。 「……だが、君の音が一番心に響いた…」 吉羅の意外な言葉に、香穂子は思わず目を見開く。 「…技術的にまだまだである以上、君をコンクール参加者と一緒にアンサンブルを組ませる訳にはいかない。だが、君はコンクール参加者よりも、音の表現では勝っている。誰かの心に働き掛けることが出来る音を奏でられるのは、プロのヴァイオリニストでもなかなかいない…。君は技術を磨きなさい。コンクール参加者が演奏する楽曲の楽譜を、明日渡しておく。それを元に練習をしなさい。ヴァイオリン教室でもそれをやると良い」 「…あ、有り難うございます…」 香穂子は躰も心も柔らかくなっていくのを感じる。 吉羅を今までかたくなな冷たい男性だと思っていた。 だがきちんと、香穂子の長所と短所を見てくれていたのだ。 それが嬉しい。 「…頑張ります…。私…」 「私にヴァイオリンを聴かせに来るように。とりあえずは三日後だ」 「解りました」 吉羅がチャンスをくれているのだ。 香穂子は頑張らなければならないと思った。 |