*Gloria*

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 チャンスをくれた吉羅に応えるためにも、香穂子は前を向いて頑張らなければならないと思う。
 そうすれば少しずつではあるが、他のコンクール参加者との差を縮めることが出来るのではないかと思った。
 今はとにかく技術面を磨かなければならない。
 吉羅に聴かせる音を、少しはまともに響かせなければならないと思うからだ。
 本屋でのアルバイトと、ヴァイオリン教室。
 それだけで三日なんてあっという間に過ぎてしまった。
 将来もずっとヴァイオリンと関わって生きていきたいから。
 そのためには今をしっかりと頑張らなければならないと、香穂子は思った。

 吉羅は理事長室の窓から、中庭を走る香穂子の姿を見つけた。
 いつも真直ぐで前向きだ。
 傷付くことを恐れずに前を向いている姿は、吉羅には好感が持てた。
 香穂子をアンサンブルメンバーから外したのは訳がある。
 アンサンブルメンバーとは実力の差があり過ぎて、逆に香穂子が苦労すると思ったのだ。
 だがそのようなことを本人に言うわけにはいかない。
 だからいつものようにストレートに言ってしまったのだ。
 それで香穂子を傷つけてしまったのは、心の奥底では胸を痛めていた。
 だが、これぐらいのことで堪えて貰っても困るというのは事実ではあった。
 吉羅は、香穂子ならば乗り越えてゆけると、密かに信じていたから、それに懸けたのだ。
 自分は嫌われても構わない。
 それで香穂子が乗り越えられたらそれで良いと思う。
 香穂子への感情が何であるかは、吉羅には解らない。
 ただ、その感情が今までにないものであるのは確かだった。
 吉羅が自席に腰を下ろし、仕事を始めたところで、ノックが鳴り響いた。
「吉羅理事、日野です」
「入りたまえ」
「失礼致します」
 香穂子が理事長室に入ってくる。
 柔らかな秋の陽射しに照らされた香穂子は、まるで妖精のように綺麗だった。
 緊張した面持ちで香穂子は吉羅を見つめてくる。
 その瞳がとても綺麗だ。
「…日野君、ではヴァイオリンを奏でたまえ」
「…はい…」
 香穂子は緊張気味に頷くと、ケースからヴァイオリンを取り出す。
 僅かに震えているのが、何処か可哀相だった。
 吉羅は、顎の下て指を組むと、肘を着いて香穂子の様子を眺める。
 ヴァイオリンを構えた瞬間、香穂子は背筋が伸びて、緊張などが何処かに行ってしまっているのが見えた。
 まるでプロのヴァイオリニストのように美しい。
 これほどまでに美しい女性は他にはいないだろうと、吉羅は思う。
 それほど香穂子の姿からは、堂々としたオーラが感じられた。
 これほどまでに素晴らしいオーラを滲ませるのは、吉羅が愛してやまなかったあのひとだけなのだ。
 日野香穂子があのひとと同じようなオーラを身に纏っているなんて、吉羅は思いもよらなかった。
 香穂子は、緊張を和らげるために、何度も深呼吸をしていた。
 ようやく心を落ち着けたのか、香穂子はヴァイオリンを奏で始めた。
 吉羅は瞳を深く閉じて、香穂子が奏でるヴァイオリンね音色に専念する。
 香穂子が奏でた音を聴いた瞬間、鳥肌が立つような感動が魂の奥深くから湧き上がる。
 あのひと同じような情緒溢れる音が聞こえる。
 これほどまで巧みに感情を表現するひとは、あのひと以外には知らない。
 音の解釈では、プロのヴァイオリニストも負けてしまうのではないかと思うぐらいに巧みだ。
 深くて広くて温かい。
 香穂子の音色からは、大きな愛すら感じられた。
 その音色の素晴らしさは、泣き出してしまいそうなほどだ。
 そこまで感動させる音色を奏でられるのは、日野香穂子しかいないのではないかと思った。
 あのひとのように優れた表現力を持つ音。
 いや、本当はあのひと以上に表現力の才能はあるのかもしれない。
 あのひと以上に音楽の妖精から愛されているのだから。
 吉羅は胸が苦しくなるほどに感動を覚える。
 あのひとと比べると、ヴァイオリンの技術はまだまだだし、コンクール参加者と比べても、技量は遥かに劣る。
 だが、確実に、しかもかなりのスピードで、その溝が埋まってきているのは確かだ。
 吉羅はこれほどまでに上達が早いヴァイオリニストを見たことがなかった。
 吉羅も音楽科にかつては在籍をし、ヴァイオリニストを目指した。
 それゆえに力量は分かるのだ。
 香穂子の技量を得るスピードはかなりのものだ。
 こんなにも早く上達しているのであれば、近いうちに音楽科の生徒は追い越されてしまうだろう。
 そして。
 コンクール参加者をも遅かれ早かれ追い抜いていくだろう。
 あの月森蓮でさえも。
 コンクール参加者たちは、それを本能で解っているのだ。
 誰もがその楽器の技量は学院一だ。
 それであるがゆえに、香穂子の潜在能力を見抜いてしまっているのだ。
 金澤もそうだ。かつて一流の音楽家であったから、その見抜く目は人一倍優れている。
 音楽家としても指導者としても一級だ。
 勿論、本人がやる気を出せばという話にはなるのだが。
 香穂子の本当の能力に気付かない者は、恐らくは凡人でしか終わらない。
 吉羅は、出来たら香穂子が起こす奇蹟を、一番近い場所で見たいと思った。
 こんなにも素晴らしい奇蹟は他にはない。
 それを耳でこの目で、見ることが出来ればと、思わずにはいられない。
 吉羅は深呼吸をすると、背筋を伸ばす。
 ものすごい奇蹟を見せられているのだと、改めて思う。
 決して見逃したくはなかった。

 香穂子は背筋をぴんと伸ばして、精一杯のヴァイオリンを奏でる。
 吉羅にしっかりと聴いて貰おうだとか、良く思われようだとか、そんな感情はとうの昔に捨て去っていた。
 ただ二度とはないこの瞬間の演奏を、しっかりと楽しみたい。
 ただそれだけだ。
 そして。
 技術面はともかく、吉羅には純粋に楽しんで貰えたら良いと思った。
 音楽は楽しい音と書くのだから、吉羅にそれさえ感じて貰えたら、それだけで良かった。
 ヴァイオリンを奏でる時間を純粋に楽しむ。
 今のありのままを吉羅には聴いて貰えば良いのだから。
 大丈夫。
 技術は伴わないのは知っているから、足りないところはヴァイオリンへの熱情で埋める。
 香穂子はただ楽しむことだけに集中していた。
 ヴァイオリンを奏で終わり、香穂子は脱力をしたように大きな深呼吸をした。
 吉羅を見ると、ゆっくりと目を見開く。
 その瞳に滲む感情は、いつも以上に冷たいものだった。
 香穂子はそのまなざしに怯まないように、背筋を整える。
 吉羅に気に入って貰えなかったとしても、それはしょうがないこと。
 今、香穂子が行えるベストなのだから。
 吉羅のまなざしは、向けられるだけで緊張感が発生するが、香穂子はあえてそれを跳ね返そうとした。
「…以前よりも技術的にはかなり良くなった。…だが…、まだまだコンクール参加者との間に溝はある」
 吉羅は淡々と香穂子に厳しい言葉を投げ掛けてくる。
 吉羅が言うのは当然のことだ。
 香穂子は自分が悔しいと思った。
 もっともっと頑張らなければならない。
「…だが…、悪くはない…」
 吉羅の思いがけない言葉に、香穂子は目を見開く。
「君には明日から彼らとの溝を埋めるためにヴァイオリンの補講を行なう。開港150周年記念のアンサンブル披露まで、余り時間はない。彼らとの合同練習には明後日から合流。そして、明日はみっちりと補講を受けたまえ。良いね」
「は、はいっ!」
 吉羅の言葉に香穂子は震える。
 こんなにも嬉しいことはなかった。



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