*Gloria*

3


 ヴァイオリンでチャンスをくれた吉羅に、香穂子は素直に感謝せずにはいられない。
 それに応えるためにも、精一杯頑張らなければならない。
 アンサンブル曲をマスターして、皆と演奏がしたい。
 香穂子はその一心でヴァイオリン演奏を頑張った。

 吉羅に呼ばれて理事長室に向かう。
 補講のためのガイダンスを受けるのだ。
 緊張の面持ちでドアをノックする。
「日野です」
「入りたまえ」
 相変わらずビジネスライクな対応に苦笑いを浮かべながら、香穂子は理事長室へと入った。
「失礼します」
 香穂子は目の前にいる恰幅の良い男性に目を見張る。
「早乙女先生だ。日本ではヴァイオリンの講師としてもソリストとしても超一流の方だ」
「よ、宜しくお願いしますっ」
 その名前は香穂子もちらりと聞いたことがあった。
 その教え子は名だたるプロが多いと聞いている。
 それゆえに憧れの講師でもあった。
「日野君、君の補講は早乙女先生に行なって貰う。時間は1時間を3回だ。時間は余りないが、とても勉強になるだろう。しっかりと頑張りたまえ」
「はい…!」
 貴重でたまらない時間だ。
 今までよりも確実にヴァイオリンの技術が向上すると、香穂子は思わずにはいられない。
 一秒たりとも無駄に出来ないと思った。
「よ、宜しくお願いします! 早乙女先生!」
 香穂子は深々と頭を下げて、早乙女に挨拶をした。
「…だが、早速だが、一曲弾いてみて欲しい」
「は、はいっ」
 香穂子は緊張の余りに、ヴァイオリンを構えるだけで半ば震えてしまう。
「日野君、いつも通りにすれば良いんだ。構えることはない」
「は、はいっ」
 そうは言われてもやはりなかなか緊張はとけない。
 一流ヴァイオリニストを専門にレッスンをしている早乙女なのだから。
「深呼吸でもして、落ち着くんだ」
「はい…」
 香穂子は深呼吸を何度もしながら、ヴァイオリンに集中していく。
 なかなか上手くいかないのは解ってはいるが、どうしても少しでも素晴らしい演奏が出来れば良いのにと思わずにはいられない。
 こうして緊張なんてしていたら良い演奏が出来ないのは解っている。
 それでも震えはなかなか止まらなかった。
 だがやがてヴァイオリンに集中する。
 技術はまだまだだとは解っているから、ベストな状態で弾くことにした。
 ヴァイオリンをただ無心に演奏をする。
 素直に演奏が出来た。
 ヴァイオリンを奏で終わると、吉羅はいつも通りに冷たい表情のまま一緒だ。
 香穂子は、気になって思わず早乙女の顔を見上げた。
 早乙女もまた表情が厳しい。
「…君は…確かに、ヴァイオリニストとしての技術の幅は乏しい」
 早乙女の言葉に、香穂子は胸がズンと重いような気がした。
 吉羅が折角、超一流のヴァイオリン講師を手配してくれたというのに、それに応えられない自分が辛い。
 香穂子は思わず唇を噛み締めた。
「…だが…、解釈は大変素晴らしい…。少なくとも私はそう思う。日野君のヴァイオリンの音色には底知れぬ力強さと温かさを感じる。この点は素晴らしいと思っています」
「…有り難うございますっ!」
 思いがけずに褒められて、香穂子は嬉しさの余りに声をうわずらせる。
 本当に嬉しい。
 ちらりと吉羅を見ると、いつものような冷たく厳しいまなざしを持ったままだ。
「日野君、君の技術はまだまだだ。アンサンブル公演まで時間もない。かなり努力をしなければならない。それは解っているだろうね?」
 吉羅の言葉に、香穂子の言葉にも意思が宿る。
「解っています。精一杯頑張ります」
「結構なことだ」
 吉羅はさらりと言うと、香穂子を見る。
「レッスンは明日からだ。僅かな時間だがしっかりと励みたまえ。以上だ」
「はい。有り難うございました」
 香穂子は、吉羅と早乙女に深々と頭を下げると、静かにその場を辞した。
 理事長室から出て、正直言ってホッとする。
 香穂子は理事長室のドアを見上げる。
 吉羅暁彦が次期理事長に就任するのはもうすぐだ。
 その証拠に、理事長室が徐々に整えられていっている。
 吉羅暁彦が理事長になれば、学院はどのように変わっていくのだろうか。
 そして香穂子も。
 ある意味期待をすると同時に、怖くもあった。

 放課後、香穂子は書店のアルバイトに精を出す。
 ヴァイオリンのためのアルバイトだから、全く苦にもならない。
 自分のやりたいことと夢のためなら、どんなことでも楽しめるような気がした。
「いらっしゃいませ…あ…、吉羅理事…」
 吉羅の手には、アメリカの経済誌が握られている。
「…アルバイト頑張っているようだね」
「はい。ヴァイオリンがこの後弾けると思うと、嬉しくて」
「それは良かった。精一杯頑張るように」
「はい」
 香穂子は吉羅の会計をしながら、笑顔で呟いた。
「有り難うございました」
 香穂子は吉羅を見送った後、爽やかな気持ちで満たされる。
 何だか知らないが力が躰の奥底からわき出てくるような、そんな気分になった。
 アルバイトを終えてから、練習ブースに入って、一生懸命ヴァイオリンを弾く。
 折角チャンスを貰ったのだから、ヴァイオリンできちんと恩返しがしたかった。

 アルバイトとヴァイオリンの練習とレッスン、補講。
 毎日がくたくたになるぐらいにヴァイオリン漬けの毎日だ。
 家が近いから、早目に学院に行き、ヴァイオリンの練習をしてから授業を受ける。
 放課後の補講、アルバイト、ヴァイオリン教室、練習。
 そんな日々だが少しも辛くは思わない。
 むしろ楽しかった。

 日野香穂子の様子を見ていると、吉羅は早逝した姉のことを思い出さずにはいられなくなる。
 ヴァイオリンのためならどのようなことも苦しいとは思わないところが、とても似ているように思えた。
 だからこそ怖くもなる。
 日野香穂子が姉のようにならないとは限らないのだから。
 ヴァイオリンのために生き、その命が尽きたのもまたヴァイオリンのためだった。
 そのようなところが香穂子は非常によく似ている。
 だからこそ姉のようにはなって欲しくはないと思わずにはいられなかった。
 余り無理をさせたくはない。
 だが、香穂子が努力をしなければ、アンサンブルに出してやることが出来ないのも、充分過ぎるぐらいに解っている。
 だからこそ、香穂子には無理しなくて良いところは無理させたくはなかった。

 昼休みに吉羅からの呼び出しがあり、香穂子は応接室へと向かう。
 何が拙いことをしてしまっただろうか。
 香穂子はそれだけが気にかかる。
 応接室のドアをそっとノックをして、香穂子は背筋を伸ばした。
「理事長、日野です」
「入りたまえ」
 香穂子は背筋を伸ばし、ゆっくりと応接室に入った。
 吉羅は相変わらず尊大な雰囲気を漂わせている。
「君に話があってね。かけたまえ」
「はい、失礼します」
 吉羅暁彦は、相変わらず緊張せずにはいられない雰囲気を持っている。
「日野君、ヴァイオリンの練習場所はこちらで確保をする。弦についても張り替え費用は、私が負担をしよう。だからアルバイトは辞めたまえ。余り躰に負担になるようなことはしないほうが良い」
 吉羅はキッパリと言ってくる。
 吉羅は香穂子のことを思って言ってくれている。それはとても嬉しい。
 だが、自分で出来る限りやりたい気持ちはある。
「躰を壊しては本末転倒だ。アルバイトと早急に辞めるんだ」
 吉羅の厳しい言葉に、香穂子は答えることが出来なかった。



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