*秋からのラヴソング*


 ようやく仕事も落ち着き、そろそろ体調管理のためのトレーニングを始めようと、吉羅は考える。

 暫く、ランニングを休んでいたから、再開したいと思っている。

 健康管理は、吉羅にとって、今やライフワークのようになっていた。

 姉が反面教師になっているからだろう。

 ジムのマシーンで身体を鍛え、そしてランニングで更に身体を健やかに絞る。

 健康もスタイルも自由にコントロール出来なければ、一流のビジネスパーソンにはなれないという、欧米の考え方も影響している。

 それは、長らく、外資で働いていたということもあるのだろう。

 体調とライフスタイルコントロールが出来てこそ、仕事のマネジメントが出来る。

 まだまだ『パワーエリート』的な考えが、吉羅にこびりついていることは確かだ。

 吉羅は、学院近くの公園で、ランニングコースの下見をしていた。

 久々に時間が取れたから、きちんと下調べをしておかなければならない。

 吉羅が入念に下調べをしていると、何処か覚束無いのに、とても心が惹かれるヴァイオリンの音色が聴こえてきた。

 音はかなり甘いし、ヴァイオリンの技術はぐらぐらで、とてもでないが、上手いとは言いがたい演奏だ。

 だが、無性に惹かれるのも、また確かだった。

 とても魅力的な音だ。

 音色だけで癒される。

 かつてはヴァイオリンを志していたから、吉羅は技術がふらついている音は、聴くに値しないと思っていた。

 そんなはすっぱな音は耳に毒だ。

 だが、この音色だけは違う。

 技術が伴わないのに、魅力的なのだ。

 心が癒されて、温かい。

 吉羅は、音に導かれるようにゆっくりと近付いていった。

 するとそこには、夕陽に照らされて一心不乱にヴァイオリンを弾く、日野香穂子がいた。

 暫く、香穂子の音色に聞き入る。

 目を閉じて聴くと拙くて、本当にまだまだだと思う。

 だが、この温かく澄み渡った音色は、練習や学習を続けるだけでは作ることが出来ない音だ。

 とても柔らかくて優しい音だ。

 音色が静かに止まる。

 香穂子はゆっくりと目を開けた。

「……吉羅理事長……」

 香穂子は驚いたように息を飲む。

 明らかに吉羅に対して構えているのが、ありありと分かる。

 きっと批判されるのだろうかと、怯えているのだろう。

 吉羅は心のなかで苦笑いを浮かべた。

 本当は分かっている。

 香穂子がベストを尽くしていることは。

 だが、今のままでは駄目なことも分かっている。

 だからこそ厳しくするのだ。

 だからこそ冷たくするのだ。

 吉羅は厳しい目で香穂子を見つめた。

「ヴァイオリンは表現力だけではいけない。だが、技術だけでも詰まらない。どちらも高めてこそであるのは、君にもよく解っているね」

 吉羅は淡々と、香穂子に言い聞かせるように言う。

 先程まで構えていた香穂子だが、素直に聞いてくれているようだった。

 そのあたりは、素直な気質なのだろう。

 負けず嫌いで前向き。そしてきちんとひとの話は聞いて、納得すればきちんと受け入れる。

 性格は伸びるタイプだ。

 この性格を歪めずに、このまま行けばと、思わずにはいられない。

「分かっています。だけど、なかなか上達しなくて……」

 香穂子は言い淀む。

 普通科である香穂子が、きちんとした師に師事しなければ、伸びないことは、吉羅にはよく分かっている。

 だからこそ、ついなんとかしてやりたいと思ってしまう。

 ひとりでよくここまで努力をしていることは、吉羅にはよく分かっている。

 ここまで香穂子が頑張ったのだから、手をさしのべるのには潮時だと吉羅は思った。

「日野くん、放課後に、ヴァイオリンのレッスンを受ける気はないかね?」

「……え?」

 香穂子の瞳が、明らかに爛々と輝くのが解った。とても魅力的だと、吉羅は思う。

 学ぶことへの前向きな気持ちが強く感じられる。

 とても魅力的な眼差しだ。

 吉羅は、見つめているだけで、心がふわふわと温かくなる。

 こんなにも純粋に何かに取り組むことが出来る姿勢が、とても羨ましい。

 憧れすら抱く。

 吉羅は、香穂子に無償の助けがしたいと、思わずにはいられなかった。 

 手をさしのべたい。

 それぐらいは許されるだろうか。

 そんなことを吉羅は考える。

「基礎から学べるように手配をする。曜日などはこちらで調整をさせて貰うが、構わないかね?」

 吉羅は、あくまで冷たい眼差しを香穂子に向ける。とことんまで、クールな眼差しだ。

「はい。ヴァイオリンが基礎から学べるのは、凄く嬉しいです。ちゃんと、学んだことがないですから」

 基礎から学べる環境というのは貴重なのだということを、吉羅は強く思った。

 幼い頃からヴァイオリンを習っていた。

 だが、それが恵まれているとは思ってもみないことだった。

 そんなこと、一度たりとも考えたことはなかった。

 星奏学院の理事長家系に生まれてしまったから、当たり前のことだと思い込んでいた。

 だが、そんなことはないのだということが、今なら分かる。

 ひたむきな香穂子のために、何とかしてやりたい。吉羅は強く思った。

「おって連絡をする」

「有り難うございます」

 先程まで、あれほどまでに頑なな表情をしていたというのに、香穂子の表情は明るく希望に輝いている。

 とても綺麗だと、吉羅は思った。

 誰かを心から綺麗だと思うことなど、今までなかったというのに。

 吉羅は自分の心の機微に驚いてしまう。

 本当に、今まではこのようなことなどなかったのだ。

 香穂子の横顔を見つめる。

 本当に心から美しいと思う。

 ヴァイオリンを基礎から学べることが、本当に嬉しかったのだろう。

 驚くほどに綺麗だ。

「理事長、有り難うございます」

 香穂子は深々と頭を下げる。わくわくしてしょうがないとばかりの笑顔を浮かべていた。

「日野くん、君はいつもここで連絡をしているのかね?」

「はい。ここが一番良い練習場所です。気兼ねなくのびのび出来ますから」

「そうか」

 吉羅は納得しながら頷いた。

「吉羅理事長は、ここにはどうして?」

「君のヴァイオリンの音色が、余りにも酷かったからだよ」

 吉羅の言葉に、香穂子は拗ねるような可愛い表情を浮かべた。

「冗談だ。仕事帰りに、トレーニングがてら、走ろうと思ってね」

「理事長が!」

 意外だとばかりに香穂子は目を丸くする。

「私は、健康もスタイルもきちんと維持していくのが仕事だと思っているからね」

「理事長らしいです」

 香穂子と夕日を見ながらのんびりと会話をする。なんて贅沢なのだろうかと、吉羅は思う。

 こうしていつまでも温かで幸せな時間が過ごせたらと、願わずにはいられなかった。



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