*秋からのラヴソング*


 吉羅理事長の気まぐれだろうか。

 ヴァイオリン演奏者として認められてはいないことぐらいは、香穂子には充分すぎるぐらいに解っていた。

 なのにレッスンを手配してくれるという。

 しかも香穂子が受けたいと願っていた、基礎からのレッスンだ。

 これはほんとうに有り難くて、香穂子は何度お礼を言っても足りないと思った。

 早速、理事長室に呼ばれ、香穂子は緊張しながら向かった。

 音楽科でもない自分を、こうして気にかけてくれるというのは、本当に有り難いと香穂子は思った。

「日野です、理事長」

「入りたまえ」

 相変わらず乾いた冷たい声が聞こえる。

 香穂子はほんのりと緊張しながら、理事長室に足を踏み入れた。

「日野くん、早速だが、君に受けてもらう基礎レッスンの予定表だ。月水金、放課後二時間ずつ。ヴァイオリン基礎の講師によるレッスンだ。場所は学院の練習室だ。遅れないように」

 吉羅は無駄なく必要最低限のことだけを香穂子に伝えると、紙切れを手渡してくれた。

 そこには簡潔に書かれた授業内容が書かれていた。

 紙を持つ手が震える。所謂、武者震いというやつだ。

 ここまできちんと橋渡しをしてくれたのだから、きちんと応えなければならないと、ゆきは思った。

 やらなければならない。

 だから前向きにがんばる。

 吉羅の気遣いに感謝するとともに、やらなければならないと気持ちを引き締める。

「有り難うございます、理事長。しっかりと頑張ります」

「是非、そうしてくれたまえ。そうして貰わなければならないね。学院の理事長として、それだけ君には期待をかけているということだからね」

「理事長」

 吉羅は厳しくもれいりな視線を向けてくる。しっかりと前向きにやらなければならないことは、香穂子が一番解っていることなのだ。

 吉羅は厳しい。

 厳しい吉羅が与えてくれたチャンスなのだから、きちんと自分のものにしなければならない。

「有り難うございます。頑張ります」

「ああ。話はそれだけだ。頑張りたまえ」

「はい」

 香穂子は頭を下げると、理事長室を辞した。

 頑張らなければならないことは、解っている。だが、引き締まった顔よりも、にんまりとしてしまう。

 やる気がみなぎり、香穂子はついつい笑顔になった。

 

 香穂子の笑顔が眩しくて温かくて、吉羅はフッと笑った。

 どうしてこんなにも甘くなったのか解らない。

 香穂子にだけは甘やかしたくなる。だが、その反面厳しくしなければならないのは解っている。

 だからこそ誰よりも厳しくするのだ。

 香穂子が望むように、更に頑張ることが出来るように手を貸してやりたい。

 吉羅はそれだけを望んでいた。

 誰かを無償で支援をする。

 吉羅にとって、このようなことははじめてだった。

 外資で働いた経験が長いため、これまでは社会貢献や奉仕は幾度となく行っていた。

 だが、それはあくまでビジネスで必要なことだと、割り切っていた。

 だが、日野香穂子に対してだけは違った。

 香穂子にだけは、純粋な想いを抱いていた。

 本当に香穂子に対して出来ることはないのだろうか。そればかりを吉羅は考え続けている。

 変わったものだと、吉羅は思った。

 他人に対して、しかも音楽に対して頑張る誰かに手をさしのべるなんて、思ってもみなかった。

 吉羅は自嘲ぎみに微笑むと、仕事に戻る。

 香穂子がどれほど伸びてくれるのかを、楽しみにしながら。

 

 吉羅が手配をしてくれたレッスンがいよいよ始まる。

 理事長がわざわざ準備をしてくれたレッスンだから、気合いを入れて臨まなければならない。

 そう思うと、やはり些かの緊張はしてしまった。

 つい肩に力が入ってしまう。

 力が入ってはまずいというのに、ついついである。

 香穂子はレッスンが行われる、練習室に、緊張しながら、入っていった。

 

 香穂子は今日からヴァイオリンのレッスンだ。

 様子が気になってしまうが、見に行くわけにはいかないのだ。

 吉羅は見に行きたい衝動を何とか抑えながら、仕事を続ける。

 後から報告が貰えることは解っているから、吉羅は何とか踏みとどまった。

 香穂子は普通科のヴァイオリニストであるから、こんなに利用価値のある生徒はいないと、最初は思っていた。

 学院のリアルで良い広告塔になるだろうと。

 だが、香穂子の音に触れているうちに、そのようなことはなくなっていた。

 今はもう純粋に香穂子を支援したいと思っていた。

 早く報告が聞きたい。

 吉羅はそれだけを強く思っていた。

 

 初めてのレッスンがようやく終わった。

 香穂子はくたくたになりながら、臨海公園に向かった。

 自分自身がふがいない。

 本当に基礎の基礎が解ってはいなかったのだ。

 次回からは基礎を徹底的に勉強することになった。

 だが、楽しみでもある。

 しっかりと勉強しようと、香穂子は思った。

 先ず基礎を徹底的に身に付けなければならないのだから。

 基礎が出来るようになれば、演奏はもっと良くなるだろうか。

 そんな期待をしながら、香穂子はヴァイオリンの練習をすることにした。

 今日、学んだことをきちんと復習して、ヴァイオリン演奏がもっと安定するように頑張るしかないと思った。

 

 仕事が終わり、吉羅は臨海公園にランニングに向かう。

 きちんとトレーニングをして、健康とスタイルを維持することが、ビジネスに於いても大切だからだ。

 吉羅は臨海公園の外周をゆっくりと回り始めた。

 香穂子のレッスン初日の結果を聞いた。

 やはり、基礎的な技術が全くないということだった。

 本人もそれをよくわかっており、謙虚に前向きに向上に取り組んでいるとのことだった。

 香穂子ならば、期待に応えてくれるかもしれない。

 これならば、自分達姉弟が夢を見てかなえられなかったことを、叶えてくれるかもしれない。

 香穂子にならば、夢を託せるかもしれない。

 吉羅は、香穂子を通して夢が見られるのではないかと思った。

 ランニングを始めると、直ぐにヴァイオリンの音色が聴こえてきた。

 香穂子だ。

 今日のレッスンを活かすために、早速、練習しているのだろう。

 そのひたむきな姿が好ましいと思うのと同時に、吉羅はもう一度夢を見たいと思った。

 日野香穂子なら夢を見せてくれる。

 吉羅はいつしか、ヴァイオリンを奏でる香穂子のそばを歩いていた。

 

 夢中になってヴァイオリンを奏でていると、背後にひとの気配がする。

 香穂子が振り返ると、そこには吉羅がトレーニングウェア姿で立っていた。



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