*秋からのラヴソング*


「理事長……」

 香穂子が声をかけると、吉羅は苦笑いをした。

「しっかりと頑張っているようだね」

「今日、教えて頂いたことを、しっかりと覚えるために復習していました。……だけど、練習がかなり足りないんだと実感しました」

 香穂子はもがいている気持ちを視線に込めて、地面を見つめた。

 香穂子には経験や練習が絶対的に足りない。

 練習をしても、し過ぎると言うことはないのだ。

 高校2年からヴァイオリンを始めて、ソリストになりたいだなんて、無謀すぎる。

「君なら月に矢を射ることが出来るだろうね」

「月に矢を射る?」

「夢を大きくもって、それに向かって努力をすることだよ。英語では“Shootingtothemoon”という」

 吉羅の言葉を、香穂子は反芻する。

「君も努力をすると良い。僅かな可能性がある限りはね。だからこそ、君に手を貸したんだからね」

 吉羅は何でもないことのように、さらりと淡々と呟いた。

 だが、香穂子にとっては、何よりも勇気付けられる言葉だった。

 それだけ吉羅が自分に期待をしてくれているということなのだ。

 それは本当に有り難いと香穂子は思った。

「有り難うございます、理事長。ご期待にそえるように頑張ります」

 香穂子は真っ直ぐ吉羅を見つめる。こんなにも有り難いと思うことはない。

「私も楽しみにしているよ。君の出世払いを」

 吉羅は相変わらず憎らしいほどに魅力的に微笑んだ。

「私は行くが、君も余り遅くならないようにね」

「はい、有り難うございます、理事長」

 吉羅は再びランニングを始める。

 こうして色々と然り気無く気遣ってくれるのが、香穂子には嬉しかった。

 

 吉羅は、ランニングをする日は必ずといって良いほどに、香穂子に声をかけてくれる。

 本当に有り難いと思う。

 香穂子自身は、吉羅に声を掛けられないと、何だか物足りないような気持ちになる。

 それだけ、ランニングをする吉羅に逢いたいと思う気持ちが強くなっていた。

 スーツ姿にしても、トレーニングウェア姿にしても、吉羅は隙がなく完璧だ。

 トレーニングウェア姿だと、吉羅の肉体が鍛えられているのが分かり、意識をせずにはいられない。

 意識をすれば、するほどにドキドキしてしまう。

 今までは吉羅が男であることを意識していなかったが、意識せずにはいられなくなる。

 こんなにもドキドキしてしまうのは、今まで初めてだ。

 香穂子は感謝と共に、吉羅に対して甘過ぎる感情が沸き立っているのを感じていた。

 今夜は吉羅は来ない。

 学院から出かける姿を見かけたのだ。

 だからとても寂しい。

 だが、その分ヴァイオリンに打ち込もうと決めていた。

「せいが出るね。全く君は」

 よく通り響く声が聴こえて、香穂子は振り返った。

「理事長……。お出掛けじゃなかったんですか?」

「おや、君は私のスケジュールを把握していたのかな?」

 特に香穂子を甘くからかうようなニュアンスで、吉羅は柔らかく呟いた。

「あ、あの、たまたま、出掛けられるのをお見かけしたので……」

「そうか」

 吉羅は蕩けるように甘い笑みを浮かべながら呟く。その表情は蕩けるように甘くて素敵だった。

「今日は少し休憩しないか?」

「え?」

「カフェで甘いものを補給するのは如何かな?」

「嬉しいです!」

「甘いものは疲れを取ってくれるからね。それに脳を活性化させてくれるからね」

 吉羅こそ、スウィーツよりも甘いと思いながら、香穂子はくすりと笑った。

「では行こうか」

「はい」

 吉羅とふたりで何処かに行くのは初めてで、香穂子は踊り出したくなるぐらいに嬉しかった。

 臨海公園近くの老舗のカフェに入る。ここのケーキは、香穂子も大好きだ。

「甘いものをしっかり食べて、頑張りたまえ」

「はい」

 香穂子は、ロイヤルミルクティを注文し、吉羅はコーヒーを注文する。

 香穂子は迷って、ガトーショコラを、吉羅は、レアチーズケーキを注文した。

 香穂子は、吉羅がケーキを注文するのが意外で、思わずその顔を見た。

「理事長もケーキを召し上がるんですね」

「私はどちらかといえば、アルコールよりもケーキが好きなのだよ。意外だったかな?」

 吉羅は、いつもは見せてくれない、屈託のない笑みを浮かべてくれた。

 魅力的な笑顔に、香穂子はとてもうっとりとしてしまう。こんなにも魅力的に微笑むひとはなかなかいないと、香穂子は思った。

 屈託なく笑う吉羅は、まるで少年のようで、香穂子の心を揺さぶってくる。それがまた心地が良いのだから、不思議なものだ。

 吉羅と静かにお茶をする。

 本当にシンプルな行為なのに、とても幸せなのだ。

 ずっと話しているわけではないのに、本当に一緒にいるだけで心地好くて幸せなのだ。

 本当にこんなことがあって良いのかと思うぐらいに。

「日野くんはよく頑張っているね」

「まだまだです。理事長がおっしゃるように、月に矢を射るぐらいに頑張ろうって思っています」

「そんなこと、よく覚えているね」

 吉羅は穏やかに言った。

「理事長の仰ったことは覚えています。だって、“理にかなっている”から」

 香穂子は当たり前だと思いながら、明るく言うと、吉羅を見た。

 吉羅はフッと笑うだけだった。

「日野くん、次はヴァイオリンコンサートに招待しよう。プロの演奏は、とても勉強になるからね」

 吉羅の言葉に、香穂子は嬉しくて頷いた。

「 ただ楽しむために聴くのではないからね。そこはしっかりと肝に銘じておきたまえ」

「はい。分かりました」

 香穂子は浮かれた気分を吉羅に修正されたのだと思いながら、素直に頷いた。

 本当に楽しいひとときだった。

 吉羅とふたりで、音楽のことを話せたことは大きいと、香穂子は思った。

 カフェの前で別れたあとも、香穂子はほわほわとした幸せに包まれていた。

 

 あのような娘は初めてだと思った。

 小生意気な今時の子供だと思っていたのに、とても素直で一途な娘だった。

 惹かれている。

 それは紛れもない事実だ。

 だが、それが許されないことは、吉羅が一番よく解っていた。

 深入りしてはならない。

 小娘に。

 なのに、惹かれずにはいられない。

 姉と同じ瞳をした、姉よりも更に強い少女。

 なのに姉よりも脆い。

 守らなければと吉羅は強く感じていた。

 これは恋ではない。

 そんなことを思いながらも、それが詭弁であることを誰よりも知っていた。



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