*秋からのラヴソング*


 香穂子のヴァイオリンの音色を聴きながらジョギングをするというのが、最近の吉羅の日課になりつつあった。

 香穂子は日に日にヴァイオリンの技術力をあげてきている。

 それは吉羅の目を見張るぐらいだ。

 確実に成長している香穂子を、吉羅は目を細めて見てしまう。

 教え子、いや教えてはいないので違う。

 だが、香穂子を助ける者として、その才能を認める者として、吉羅は誇らしいと思った。

 同時に吉羅は、可愛くてしょうがないとも思う。

 こんなにも可愛いと思う女性は、他にはいなかった。

 今までは。

 束縛出来ないほどに可愛いなんて、そんな感情が自分にわき上がってくるなんて、吉羅は思ってもみなかった。

 心が複雑に揺れるほどに、香穂子のことを大切に思っていた。

 吉羅が、臨海公園を走っていると、香穂子に絡む青年を見つけた。

「あ、あの、練習切り上げて、僕とお茶でも……」

 おどおどしながら呟いているところを見ると、根は悪い青年ではないようだ。

 勇気を振り絞って、香穂子に声をかけたのだろう。

 香穂子はといえば、驚いた様子で断っている。可愛らしく困っている姿が見える。

 不快な雰囲気はいっさいないのだが、吉羅のほうが不快だった。

 香穂子には声をかけるなと、牽制してやりたい。

 そんな子供じみた感情に支配されながら、吉羅は男を真っ直ぐ見つめた。

 牽制している自覚は、充分過ぎるほどにある。

 吉羅はゆっくりと、香穂子と男に近づく。

「彼女は私の連れだよ。これから一緒に、夕食を取る約束をしているのだが?」

 吉羅は、経済戦争で鍛えた、まるでハゲ鷹のような厳しい眼差しを男に向ける。

 男への威嚇はこれで充分すぎるようで、そのまま怯えたように走って逃げてしまった。

 勝ったと思った。

 同時になんて子供じみたことをしたのだろうかと、思った。

 だが、そんなことをしてしまいたくなるぐらいに、香穂子を独り占めにしたくなるようや感情もあった。

 束縛出来ないほどに可愛いのに、独り占めにしたくなるなんて。

 矛盾していると言っても良かった。

 香穂子への想いはそれだけ複雑だということだ。

 それほどまでに誰かを思うことが出来るなんて、思ってもみないことだった。

「有り難うございます、理事長」

 香穂子はホッとしたような笑みを浮かべている。とても涼やかで柔らかな笑みだ。

「君も充分に気を付けたまえ」

「はい、有り難うございました」

 香穂子は吉羅を信頼するように、真っ直ぐ見つめてくる。

 この瞳に応えたい。吉羅はそう思わずにはいられない。

「日野くん、今日はこれぐらいにしてはいかがね?」

「そうですね。今日はこれで止めておきます」

 香穂子はニッコリと笑うと、ヴァイオリンを片付け始める。

「日野くん、少しお茶にでも付き合わないかね?私は着替えなければならないが、それを待ってくれるならば。君の家にはちゃんと送り届けるから」

「有り難うございます、ご一緒させて下さい」

「有り難う、日野くん」

 吉羅は香穂子が付き合ってくれるのを嬉しく思いながら、思わず微笑んだ。

 

 いつもならば、トレーニングウェアのままで帰宅するのだが、今日は流石にそうないかない。

 吉羅は、香穂子を車に乗せて、会員になっているホテルのスポーツジムに向かった。

 ここで素早く着替え、ホテルのカフェに香穂子をつれて行く。

 こんなことをしても、香穂子と少し話をしたかった。

 それぐらいに、香穂子と過ごす時間を熱望している。

 ここまで女性に拘ったことが、いまだかつてあっただろうかと、吉羅は思わずにはいられなかった。

 こんなにも誰かを思い、熱望したことは初めてかもしれない。

 ホテルのカフェのスウィーツを、吉羅はかなり気に入っていた。

 ここのクリームチーズケーキは本当に美味しい。

 紅茶によく合うと、吉羅は思った。

 遠慮しないようにと香穂子に告げると、スコーンセットを頼んだ。クロデットクリームとジャム、そしてたっぷりのフルーツがついているセットを目にして、香穂子は目をキラキラと輝かせていた。

 その表情を見ると、吉羅は癒されるような気持ちになった。

「日野くん、今度は、ヴァイオリンコンサートに行こう。練習も重要だが、プロのヴァイオリンを聞くのも必要だよ」

「はい。楽しみです!」

 この笑顔を見るために、手をさしのべたい。出来ることはなるべくしたいと、吉羅は思った。

 ヴァイオリンについて話をしている時の香穂子は本当に可愛くて、輝いて見える。

 心から好きなのだろう。ヴァイオリンに、魂の底から恋をしているのだろうと、吉羅は思った。

 ヴァイオリンに妬けてしまう。

 こんな感情は馬鹿げているというのに。

 吉羅は苦笑いを浮かべずにはいられなかった。

 

 吉羅は早速、香穂子が勉強になるようなヴァイオリンコンサートがないか、探すことにした。

 幸いなことに、学院の近くには、多くのクラシックコンサートが開催されるホールがある。

 ヴァイオリンの単独コンサートも直ぐに見つけることが出来た。

 香穂子にもぴったりのコンサートだ。

 吉羅は、香穂子を理事長室に呼び、チケットを手渡した。

「日野くん、来週の金曜日のコンサートだ。制服で参加をするのが良いだろう」

「有り難うございます、理事長!」

 香穂子は本当に嬉しそうに言いながら、吉羅を見つめる。

 香穂子の喜ぶ顔を見ることが、吉羅の一番の幸せなだと思う。

 誰かに何かをしてやりたい。

 そんなことを思うのは香穂子が初めてだ。

 吉羅は、幸せで甘い気持ちになりながらも、ポーカーフェイスを装った。

 この感情が、何なのか。

 本当は分かっている。

 この感情の名前を認めたくないと思いながら、吉羅は香穂子を見つめた。

 

 吉羅からのクラシックコンサートの誘いは、飛び上がるぐらいに嬉しかった。

 勿論、ヴァイオリンを勉強出来るということもあるが、それ以上に吉羅と一緒にいられることが、嬉しかった。

 吉羅は大人の男だし、香穂子をただの生徒としてしか、ただの子供としてしか、見ていないのは分かっている。

 だが、それでも良いと香穂子は思った。

 そばにいられるだけで、今は充分だと香穂子は思った。

 コンサートに制服で行かなければならないのは、少し切なかった。

 綺麗な格好をして、吉羅のそばにいたいと思った。制服姿なんて、子供であると、吉羅とは恋をする資格なんてないと、自分で堂々と宣言しているのと同じだと、香穂子は思った。

 だが。ヴァイオリンの勉強するために、吉羅が気を配ってくれたコンサートだ。

 制服姿で行くしかないと、香穂子はがっかりとしながら思った。

 しょうがないとは思っている。

 だが、苦しくてしょうがないのも、また事実だ。

 吉羅は子供としてしか、見てはくれない。

 ひとりの対等な女性として見てほしいのに。

 その事実が香穂子を苦々しい気持ちにさせるのは、確かだった。



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