*秋からのラヴソング*


 吉羅に誘われたコンサートの日。

 香穂子は言われた通りに、制服姿で行くことにした。

 恐らくは課外授業としての色合いが大きいのだろう。

 香穂子は、吉羅に言われた集合場所である、理事長室へと向かった。

 理事長室に呼ばれるということは、正式な課外授業だということなのだろう。

 吉羅にとって、香穂子はあくまで学院の生徒なのだ。

 それ以上でも以下でもないのだ。

 それを思い知らされたようで、香穂子の胸は痛くなる。

 息が出来ないぐらいだと言っても、言い過ぎではないのだろう。

 だが、これは香穂子の一方的な想いであって、吉羅には何ら関係ないことなのだ。

 吉羅は、香穂子のヴァイオリン技術が向上するように、ただ協力してくれているのだ。

 それだけで、香穂子は幸せなのだ。

 幸せだと、思わなければならないのだ。

 香穂子は自分に強く言い聞かせるしかなかった。

「理事長、日野です」

「入りたまえ」

 吉羅の安定感のある美声が響き渡る。

 香穂子は、吉羅の声すら、ドキドキしながら、そっと理事長室に入った。

「日野くん、コンサートに向かおう。君にとってかなり勉強になると思うからね。しっかりと聞きたまえ」

「はい、有り難うございます。理事長、しっかり勉強します」

 吉羅に対する切なくも甘い想いなんて、関係ない。

 ここは、吉羅が与えてくれたチャンスをきちんと活かすしかないのだ。

 香穂子は、意欲的な笑顔を吉羅に向けた。

「それは良かった。しっかりと頑張りたまえ」

「はい、有り難うございます」

「では、行こうか。今日のコンサートはみなとみらいホールだ」

「はい」

 吉羅に着いて、駐車場へと向かう。

 吉羅の車に乗るのは初めてではないが、甘い緊張に左右される。

 香穂子を車に乗せると、吉羅は直ぐに車を発進させた。

 車内でも、吉羅はあくまで、理事長であり、香穂子にはとことんまでビジネスライクに接する。

 それが香穂子にはかなり痛い。

 厳しくて、切ない気持ちで、心がトーンダウンした。

 吉羅の車に乗りながらも、華やいだ気持ちには少しもなれなかった。

 

 会場に入ると、ひとりの男性が声を掛けてきた。

「暁彦くんじゃないかね!」

「これは小澤さん」

 吉羅は優しい笑みで挨拶をする。

「久し振りだね。元気だったかね?」

「はい。有り難うございます。小澤さんもお元気そうで何よりです」

 吉羅は穏やかな声で、なつかしそうに呟いた。

「そちらのお嬢さんは?」

「彼女はヴァイオリンを勉強している日野香穂子です。星奏学院に通っています。普通科の生徒ですが、かなり有望です。勉強のために連れてきました」

「日野香穂子と申します。宜しくお願い致します」

 香穂子は固くなりながら、小澤と言う名の紳士に頭を下げた。

「小澤さんは、著名な音楽評論家で、指揮者でもある」

 名前を聞いて、香穂子も知っている音楽評論家なので驚いてしまった。

「よ、よろしく、お願い致しますっ!」

 香穂子が改めて頭を下げると、小澤は柔らかく微笑んだ。

「暁彦くんが目をかけるということは、相当な実力を持つお嬢さんではないのかな。君の活躍を楽しみにしていますよ」

 高名な音楽評論家であり、指揮者でもある小澤に言われて、香穂子は身が引き締まる気持ちになった。

 同時に、もっと頑張ろうというアドレナリンが溢れてきた。

「では、暁彦くん、また。日野さん、今度は、ステージでお見かけするのを楽しみにしていますよ」

 男性は穏やかに言うと、そのまま静かに行ってしまった。

「さあ、行こうか、日野くん。今夜のコンサートは、君にとって様々な意味で勉強になるだろうからね。しっかりと頑張りたまえ」

「はい、有り難うございます」

 香穂子は吉羅にしっかりと頷く。

 吉羅は、香穂子を本気でヴァイオリニストとして成長させるために、力を貸してくれるつもりだ。

 それに応えるためにも、頑張らなければならないと、香穂子は思わずにはいられなかった。

 座席に誘導されて、香穂子はびっくりする。

 誘導された座席は、最高の席だ。

 勉強するには、最適と言っても良かった。

 香穂子は、このような席を準備してくれた、吉羅に深く感謝していた。

「理事長、有り難うございます。しっかり勉強します」

「しっかりと勉強したまえ。ヴァイオリニストだけではなく、周りとの調和もしっかりと見たまえ。特に第一ヴァイオリンは、オケの要だからね」

「はい」

「だが、勉強しようと余りガチガチになるのは、かえって逆効果だからね。楽しむ余裕も持ちなさい」

「はい、有り難うございます」

 香穂子は、吉羅に頷くと、ほんの少しだけ、肩から力をぬいた。

 いよいよ、コンサートが始まる。

 オーバーチュアーから、香穂子はワクワクする。

 こんなにも楽しい気持ちになるのは、久しぶりだ。

 香穂子は、瞳を爛々と輝かせながら、じっと目の前のヴァイオリニストの指に注目する。

 だが、耳も忙しく動かしてゆく。

 全体の流れにも目を配った。

 クラシックのコンサート。

 今までは、漠然と聞いて、漠然と楽しんでいただけだったが、本当に深いものだと、感じずにはいられない。

 楽しむ部分も、学ぶ部分も多くあり、香穂子はコンサートだけに集中していた。

 隣に大好きなひとがいることも、すっかり忘れてしまっている。

 香穂子は、夢中になって、コンサートを楽しみ、学びに活かしていた。

 

 香穂子の横で、吉羅は複雑な気持ちになっていた。

 香穂子には、このコンサートで様々なものを得て貰いたくて、連れてきた。

 確実に成長に繋がると判断してのことだ。

 それには大いに役立っていることを確信する。

 同時に成長に繋がっていることが、嬉しくてしょうがなかった。

 吉羅にとって、香穂子がヴァイオリニストとして成長してくれるのが、何よりも嬉しい。

 同時に、自分と一緒にいて、甘く幸せな気持ちをかんじさせて欲しいなどという、淡くて甘い感情を抱いていた。

 ふたりで手を取り合って、成長してゆく。

 それには、甘い感情も心に滲ませている。

 吉羅は、香穂子が心から楽しめ、かつ成長出来るようにサポートしなければならないと、考えずにはいられなかった。

 香穂子の横顔をじっと見つめる。

 真剣に楽しんで学んでいる姿というのは、なんて魅力的なのだろうかと、思わずにはいられなかった。



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