*秋からのラヴソング*


 吉羅が連れていってくれたコンサートは、本当に勉強になった。

 音の出し方や、コンサート全体の目配りの仕方など、香穂子が勉強しなけれはならない要素が沢山あった。

 このような素晴らしい機会を与えてくれた吉羅には、お礼を言っても、言い切れないほどだった。

「日野くん、お腹が空いただろう。軽く食事をしようか?」

「はい、有り難うございます」

 まだ、コンサートの余韻に浸りながら、香穂子は未だにほわほわとした気持ちになっていた。

 香穂子が余りにふわふわとした気持ちになっていたからだろうか。

 香穂子はつい何もないところで転びそうになった。

「おっと、日野くん、気を付けたまえ」

 吉羅がスマートに香穂子をしっかりと受け止めてくれた。

 吉羅のほんのりとした香水の匂いが、ふわりと鼻孔をくすぐる。

 その艶やかな大人の男らしい香りに、香穂子はくらくらした。

「有り難うございます」

「よほど、夢中に考え事をしていたようだね。どうせ、コンサートかヴァイオリンのことだろう。夢中になるのは構わないが、安全には留意したまえ」

「はい」

 香穂子の返事に、吉羅はフッと甘く笑った。

 吉羅は、軽い食事とのことで、美味しいリゾットが食べられる店に連れていってくれた。

 カプチーノが美味しい店とのことで、香穂子は吉羅がストレスをためているのではないかと思った。

「理事長こそ、ストレス等はためてはいらっしゃらないですよね?」

 吉羅と一緒に過ごすうちに、香穂子は吉羅がストレスがたまると、濃いコーヒーをかなり飲むのだと知った。

 しかも、胃もそれほど丈夫ではないときている。

 これには香穂子も心配せざるをえない。

「だからリゾットを選んだんだよ。これなら胃にも優しいからね」

「なるほど」

 確かに吉羅の言う通りだ。

 香穂子は吉羅の心配をしつつ、食事を取る。

 吉羅がチョイスをするだけあり、リゾットはとても美味しかった。

 軽食だなんてとんでもないと思う。

「日野くん、今日のコンサートは勉強にはなったかな?」

「はい、とても!有り難うございます。とても素晴らしいコンサートでした!」

「それは良かった。君が勉強出来たのならば、それが一番良いからね」

 吉羅は、静かな笑みを浮かべながら、香穂子にしっかりと頷いてくれた。

 その笑みがとても温かくて、優しくて、香穂子は惹かれずにはいられなかった。

 このひとはなんて魅力的な表情をするのだろうかと、香穂子は思わずにはいられなかった。

 香穂子は、興奮しながら、情熱的に、楽しく、今夜のコンサートについて話をした。

 吉羅はそれをしっかりと聴いてくれる。

 香穂子には何よりも素晴らしい時間のように思えてならなかった。

 

 食事後、吉羅は速やかに香穂子を自宅に送り届けてくれた。

 みなとみらいの夜景を見ながらの短いドライブは、香穂子をロマンティックな気分にさせてくれるのと同時に、ひどく切ない気持ちにもさせた。

 大人の女性として付き合えるようになったら、その先はどんなに甘く素敵なのだろうか。

 だが、そんな資格が自分にないのは、香穂子は誰よりも解っている。

 吉羅と釣り合いが取れる女性なんて、ダイヤモンドよりも輝いている女性に間違いない。

 そう思うと気持ちが暗くなる。

 香穂子は、ひとりの女性として、吉羅と一緒にドライブをすることはないのだろうと、思わずにはいられなかった。

 車は直ぐに香穂子の自宅に到着する。

「着いたよ、日野くん」

「理事長、有り難うございました。今日は、本当に勉強になりました。楽しかったです」

 香穂子は車を降りながら、吉羅に丁寧に礼を述べた。

「勉強になったのなら、良いことだ。では、また」

 吉羅は相変わらずクールな態度で、あっさり言うと、そのまま車を運転していった。

 吉羅がいなくなると、香穂子は静かに家に入る。

 切ない気持ちになる。

 吉羅ともっと一緒にいたいと思わずにはいられなかった。

 

 吉羅は夜道を運転しながら溜め息を吐く。

 今日の香穂子は真剣で、しっかりヴァイオリンを勉強しているようだった。

 連れていって良かったと思う。

 ヴァイオリンに夢中になる香穂子の横顔は、とても綺麗だった。

 ひたむきな姿は、吉羅を惹き付けて離さない。

 コンサートなんてそっちのけで、吉羅はずっと香穂子のことばかりを見つめていた。

 香穂子がそばにいれば、何も必要ないと思うほどに夢中になっていた。

 相手は生徒だ。

 恋愛対象にならないし、してはいけない相手であることは、誰よりもよく解っているつもりだ。

 だが、そのような禁忌を越えてしまうほどに、吉羅の恋情は高まっている。

 これを恋とは認めないし、また認めてはならないと思っている。

 だが、吉羅はその感情が、何よりも大切なものであることを解っていた。

 この感情を大切にすると誓ってしまえれば良いのに。

 今まで様々な恋をしてきたが、こんなにも重くて切なく、そして大切に思える恋は初めてだった。

 香穂子が愛しくてしょうがない。

 この愛しさは歯止めが効かなくなっている。

 吉羅は苦悩するしかなかった。

 

 吉羅は、本当にヴァイオリニスト、日野香穂子を求めている。

 香穂子に求めているのは、ヴァイオリニストとしての成長だけなのだ。

 そう考えると、またため息が出た。

 吉羅のそばにずっといるためには、ヴァイオリンを頑張るしかないのだ。

 今の香穂子にはそれしかない。

 それが解っているからこそ、香穂子は溜め息を溢した。

 ひとりの女性として、吉羅に見て貰いたい。そんなことを考えると、実現するのはとてつもなく、遠いように感じた。

 

 香穂子はひたすらヴァイオリンだけに集中することにする。

 本当にそれしかないのだと、実感してしまう。

 そのせいか、ヴァイオリンは随分と上達をしてきた。そのせいか、学院のヴァイオリン講師から、呼び出しを受けたのだ。

「ヴァイオリンコンクールに出てみない、日野さん」

「私がですか……?」

 まさかヴァイオリンコンクールの出場を勧められるとは、香穂子は思ってもみなかった。

 吉羅に近づけるかもしれない。

「はい、出ます」

 香穂子は高らかに宣言をした。

「そう良かったわ。早速、手続きに入るわ」

 講師の言葉に香穂子は気持ちを引き締める。

 これで後戻りは出来ない。



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