*秋からのラヴソング*

7


 コンクールのチャレンジに向けて、香穂子はもう後戻りが出来ない状態になっていた。

 初めての外部コンクール。

 緊張しないはずがはい。 

 だが、いつまでも緊張していてもしょうがないのだ。

 ヴァイオリンを頑張らなければならないのだ。

 エントリーをした以上は、コンクールまでに少しでも早く上達する必要があった。

 香穂子は僅かな時間でも惜しくて、ヴァイオリンの練習をする。

 ヴァイオリンの練習をするために、香穂子は、書店でアルバイトをしていたが、それすらも辞めて、練習に集中した。

 このコンクールで少しでも成長が見込めるかもしれない。

 僅かで良い。

 ほんの少しで良いから、ヴァイオリン技術も表現力もステップアップしたかった。

 ヴァイオリンに集中したかった。

 今までは、何かに集中するなんて経験は全くなかった。

 だが、熱中出来るもの、集中出来るものに、香穂子は出逢うことが出来たのだ。

 ヴァイオリンに集中することで、香穂子は、ようやく人生を歩んでいるという実感を持つことが出来たのだ。

 これはかなり大きいことだ。

 香穂子は、このような素晴らしいものに、青春時期に出逢うことが出来たことを、心から感謝していた。

 チャンスを与えてくれたファータにも、それをサポートしてくれる、先輩、同級生、後輩、友人、仲間たち、先生。

 そして。香穂子が初めて甘い気持ちを抱く相手となった吉羅暁彦。

 今回のコンクールは、この人たちに感謝をするためにあるのだと、香穂子は強く思っていた。

 だからこそ、素晴らしい結果を出したいと、香穂子は思っていた。

 土曜日は、いつもの公園ではなく、学院の練習室で集中することにした。

 コンクールなどが控えている生徒が優先されるのだ。これは香穂子にはかなり有り難いことだ。

 これで、良い環境でヴァイオリンを弾くことが出来る。

 香穂子は課題曲に集中していた。

 

 吉羅は、土曜日も相変わらずの出勤だった。

 香穂子がコンクールをめざして頑張っている姿が見られるのも、嬉しかった。

 香穂子の一所懸命な姿は、吉羅にも好ましいものだ。

 こちらも、学院の建て直しに真剣に取り組まなければならないと教えてくれるからだ。

 さりげなくではあるが、吉羅は、香穂子がコンクールに出るよう勧めるようにと、職員に促した。

 そろそろ、学院のフィールドだけでは、香穂子は自分をもて余してしまう時期だ。

 学院も、切磋琢磨するには良い場所だ。

 音楽家を目指す人間が、全国から集まってきているのだから。

 だが、視野を広げるためには、外のコンクールにも積極的に参加をして欲しいというのが、吉羅の願いだった。

 香穂子が学院で練習をしている。

 そう思うだけでほくそ笑む。

 吉羅は満たされた気持ちになりながら、たまっていた仕事をこなしていった。

 

 お昼も忘れてしまうぐらいに、香穂子は練習に熱中してしまっていた。

 気が付くと、もう三時過ぎになっていて、香穂子は驚いてしまった。

 時間という概念を忘れてしまうぐらいに、ヴァイオリンに熱中し、集中していたのだ。

 これには香穂子自身も驚いてしまった。

 流石に食事をしなければならない。

 食事をして、臨海公園で練習をしようと、香穂子は練習室を出た。

 すると吉羅が、歩いてくるのが見えた。

「日野くん、練習かね。熱心だね」

「理事長もお仕事ですか?ご苦労様です」

 吉羅の姿を見つめながら、香穂子は大変そうだと思った。

「練習は終わりかね?」

「はい。お昼を忘れて練習してしまいました」

 香穂子は苦笑いをしながら言うと、吉羅もまた苦笑いを浮かべた。

「私もそうなんだ。仕事に集中し過ぎてしまってね。全くの偶然、ということになるかな?」

「そうですね」

 香穂子もつい笑ってしまう。

 吉羅と目を合わせて笑った後、香穂子ははにかんだ眼差しを吉羅に向けた。

「日野くん、今から一緒にランチに行かないかね。この時間だと、ランチとディナーが同時になってしまうが、構わないかね?」

「はい、有り難うございます」

「集中して練習をした後は、気分転換が必要だからね。少しドライブをしてから、早目の夕食が良いかもしれないね」

「お気遣い、色々と有り難うございます」

 吉羅の気遣いが嬉しくて、香穂子はつい笑顔になってしまう。

 やはりこのあたりの気遣いは超一流だと、香穂子は思わずにはいられなかった。

 吉羅と一緒にこうしていられる。

 それだけで、香穂子の内側から活力が溢れてきた。

 頑張れる。

 もっと頑張れる。

 香穂子はそう強く思えた。

 

 吉羅の車に乗って、ドライブがてら、食事場所に向かう。

 車窓から見える陽射しが柔らかくて優しい。

 香穂子は思わずほわほわとした気持ちになった。

 吉羅の車で、ドライブをするのも本当に良い気分転換だ。

 冬の日曜日の午後の陽射しは、なんて優しくて愛が溢れているのだろうかと、香穂子は思わずにはいられなかった。

 

 吉羅とのドライブの終点は、ジャズとクラシックを融合した音楽の生演奏が聴くことが出来るレストラン。

 少し早目の夕食時間でも、受け入れてくれるこじんまりとしたレストランだった。

 お洒落な雰囲気というよりは、何処かレトロでハイカラな洋食屋の雰囲気が滲んでいた。

 それも香穂子には好ましい限りだ。

「素敵ですね、このお店」

「学生時代からよく来ている」

 吉羅の学生時代なんて想像すら出来ないが、きっと今よりも冷たい雰囲気だったのではないかと、香穂子は思った。

 そう思ってしまうほどに、吉羅は随分と温かくなった。それでも、まだまだかもしれないが。

 定番の洋食として、ロールキャベツが運ばれてくる。かなり大きなロールキャベツに、香穂子はつい目を見張った。

「凄い!」

「味もなかなかだからね」

「はい」

 香穂子はナイフとフォークで丁寧にロールキャベツを食べる。

 肉汁がこぼれてきてとても美味しかった。

 美味しい食事と同時に、ピアノ演奏が流れる。

 時の過ぎ行くままに。

 ジャズのスタンダードを聞きながら、香穂子は胸の奥が切なくなる。

 名曲の通りに、時の流れはなんて儚いのだろうかと思った。

 こうして、今は吉羅と一緒にいられるが、いつかこれはセピア色の思い出になる。

 いつまでもこうしていられたらと、香穂子は時間にしがみつきたくなった。



Back Top Next