*秋からのラヴソング*

16


 吉羅に早く伝えたい。

 香穂子は、理事長室までの道のりを走って行く。

 廊下を走ってはいけませんと、言われたのは、確か、小学生の頃だが、今は、そんなことを気にしてはいられない。

 誰よりも早く会いたい人。

 逢って伝えたい人は、吉羅。

 香穂子は必死になって走り、吉羅がいる理事長室へと向かった。

 吉羅にいち早く伝えたい。

 吉羅のお陰で、試験最中に落ち着くことができ、力を発揮することが出来たのだから。

 それには本当に感謝をしている。

 今までかなりの力を貸してくれたのだから。

 吉羅は手心を加えない男だし、転科を薦めてはくれたが、あとは香穂子の実力次第だと、言っていたのだから。

 きちんと自分の力で、合格を手に出来た。

 そのことを吉羅に伝えたかった。

 息を切らせ、理事長室のある特別棟までやってくる。

 理事長室までの階段を、息を乱しながら上がりきった。

 重厚な扉が見え、香穂子は深呼吸をした後、しっかりとノックをする。

「理事長、日野です」

「入りたまえ」

 吉羅はいつも通りのよく通る声で答え、香穂子は「失礼します」と、勢いよくドアを開けた。

「随分と元気だね、君は。しかし、校内を走るのは良くないね」

 吉羅は苦笑いを浮かべながら、意地悪に呟いた。その意地悪さに、香穂子は拗ねたくなる。

「理事長、転科試験、合格しました。有り難うございます」

 香穂子は深々と頭を下げる。

「おめでとう。これで君は音楽科の生徒だ」

 吉羅は、ほんの一瞬だけ、甘さの感じられる笑みを浮かべる。とても魅力的な笑みだ。

「先程、金澤さんから報告を貰った。君の演奏は見事だったそうだね。満場一致の合格だそうだ」

 吉羅に言われると、嬉しさが込み上げてくる。

 ここまで頑張ることが出来たのは、吉羅が精一杯のサポートをしてくれたからだ。

 吉羅のお陰で、ここまで頑張ることが出来たのだ。

 嬉しくて、思わず涙がホロリと流れた。

 こんなに嬉しかったことは、今までなかった。

「日野くん、泣くほどのことではないだろう?」

 吉羅は苦笑いを浮かべながらも、香穂子を温かく見守ってくれている。

「嬉しくて……。これも理事長のお陰です。有り難うございます」

 香穂子は泣きながらも、思わず笑ってしまう。すると、吉羅は益々困ったような表情をした。

「泣くな……。日野くん……」

 吉羅は香穂子の頬に指先を持っていくと、その涙を掬う。

 胸が締め付けられるほどにときめいて、甘くなる。

 香穂子は、心がハチミツのように甘く蕩けてしまうような気がした。

「日野くん、座っていなさい。とっておきの甘い菓子があるから、それでも食べて、のんびりとしなさい」

「有り難うございます」

 吉羅は香穂子を椅子に座らせてくれると、そのまま理事長室の奥にある、小さなパントリーに入った。

 直ぐに温かな珈琲の香りがして、とても心地が良かった。

 

 泣き笑いを浮かべた香穂子を抱き締めたくてたまらなかった。

 こんなにも甘い緊張が起こるなんて、思ってもみなかった。

 愛しい。

 抱き締めて、そのままどこかに連れ去りたい衝動を覚えた。

 勿論、理事長である以上は、そのようなことは許されないことぐらいは、百の承知だ。

 だが、香穂子を愛しいと思う気持ちには、歯止めが効かない。

 吉羅は、珈琲を淹れながら、落ち着こうと必死になった。だが、なかなか、そういうわけには、いかなかった。

 なかなか落ち着けない。

 香穂子はカフェオレ、自分はブラックで珈琲を準備する。

 甘いお菓子は、香穂子が合格をしてやってくると考えて、レアチーズケーキである、フォンダンフロマージュを準備した。

 吉羅は、ケーキをセットして、香穂子に持っていった。

「いつもと逆ですね」

「そうだね。今日は特別だ。君が転科試験に受かったからね」

「有り難うございます」

 香穂子は相当嬉しいのだろう。ニコニコと楽しそうに笑っている。

 香穂子の表情を見ているだけで、吉羅は幸せな気分になるこんなにも幸せな気持ちにしてくれるのは香穂子だけだ。

「カフェオレとフォンダンフロマージュですね!大好きですよ、これ」

 香穂子は歌うように言うと、早速、フォークを握りしめる。

 これだけ見ると、幼子のようで、吉羅はくすりと笑ってしまう。

「あ、理事長いただきます」

「食べたまえ」

 香穂子が幸せそうに、フォンダンフロマージュを食べている姿を見るだけで、吉羅は自分がご褒美を貰っているような気分になった。

 吉羅も遅れて、フォンダンフロマージュを口にする。

 幼い頃から好きな、口どけが良いケーキだ。香穂子と食べていると、格別な味のような気がした。

「日野くん、これで君はスタートラインに立った。始まったばかりだからね。しっかりと頑張りたまえ」

「はい。これからが頑張らないといけないですね。しっかりと頑張ります」

「ああ」

 吉羅はしっかりと頷くと、香穂子をまっすぐ見た。

 香穂子はようやくスタートラインについたに過ぎないのだ。いや、スタートラインに立つためのスタートラインについたに過ぎないのかもしれない。

 香穂子がヴァイオリニストとして立つには、まだまだ険しい環境ではある。

 だが、そこにあえて飛び込む香穂子を、吉羅はしっかりと支援してやりたいと思った。

 今はそれしかやってやれることはないのだから。

 

 吉羅に喜んで貰えたのが嬉しくてしょうがない。

 勿論、転科試験に合格したのも嬉しいが、それと同じぐらいに嬉しかった。

「これからのほうが厳しい。しっかりと頑張りたまえ」

「有り難うございます」

 香穂子はしっかりと頷く。

「私も出来る限りの助力はしよう。だが、その助力をどうするかは、君次第だ。君が頑張る姿を私に見せてくれるのなら、助力は惜しまない。ファータも同じだろう」

 死ぬほど努力をしろと、吉羅が言外に滲ませているのは確かだった。

「はい」

 香穂子はしっかりと頷くと、吉羅を見る。

 覚悟はできている。

 自分の夢を叶える。

 それが一番ファータと吉羅への恩返しになる。

 香穂子は、ようやく一歩歩み始めた。

「しっかりと頑張ります。これからも宜しくお願いします」

 香穂子はソファから立ち上がると、深々と頭を下げた。

 これは吉羅とファータとの紛れもない強い約束に間違いない。

 香穂子はら約束を守るためにも、気持ちをしっかりと持たなければならないと、思った。



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