*秋からのラヴソング*

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 いよいよ、香穂子の音楽科への転科試験が始まる。

 香穂子は、元々、星奏学院の生徒であるから、ペーパーテストは免除される。今回の転科するため、ヴァイオリンの実技のみの試験だ。

 実技だけだからこそ、掛け値なしでその実力を見られてしまうのだ。

 それはそれで厳しい。

 ヴァイオリンを始めて一年足らずの自分が、何処まで、音楽科の生徒との溝を小さく出来るかは分からないが、とにかくやるしかない。

 香穂子は、緊張を隠せないままで、試験会場に向かうときも、緊張しすぎて、どうかしていた。

 緊張していて自滅をしてしまうのではないかと思うぐらいに、酷い状態であるのは、ゆき自身も認めるところだった。

 本当に酷いと思う。

 これ以上、酷いことはないのではないかとすら、思ってしまう。

 香穂子はガチガチに緊張しながら、転科試験会場に入った。

 控室には、既に土浦がいる。

 香穂子とはキャリアが違うこともあり、かなり堂々としている。

 緊張なんて、こと土浦に関しては、ないのだろう。

 転科試験なんて、お茶の子なのだろうと思う。

 彼が目指しているのかかなり上のレベルだ。

 転科ぐらいで怖じ気づいてはいられないのだろう。

 吉羅の期待に応えたい。

 いや、応えなければならない。

 そして、転科ぐらいは乗り越えられないと、吉羅との恋の先を、残念ながら望むことは出来ないのだから。

 それぐらいは、香穂子も充分に分かっている。

 香穂子は本当に羨ましかった。

「……土浦くん、堂々としているね。羨ましい」

「俺だって緊張している。転科出来ないと話にはならないからな」

 土浦の話を聞くと、やはりプレッシャーは香穂子と同じぐらいにあるのだと感じられる。

 親近感を得ながら、自分だけではないと、香穂子はホッとした。

「そうだよね。だけど、堂々としているよ」

「まあ、それは見た目だろ?」

「そうかもしれないね」

 土浦と軽く話をしていると、不思議と気持ちも落ち着いてくる。これは有り難い。

「じゃあ、土浦くん、入って」

 転科試験担当者に呼ばれ、土浦は試験会場に向かう。

「じゃあ、いってくる」

「うん、いってらっしゃい」

 土浦を見送ってひとりになると、香穂子の緊張がまた蘇ってきた。

 土浦と話をしていると、全く平気だったのに、また緊張が振り返す。

 香穂子は、ある意味、コンクールよりも緊張するのではないかと、思った。

 ノックが響く。

 香穂子がドアを開けると、吉羅がいた。

「理事長……」

「いよいよ試験だね」

「……はい」

 香穂子は緊張がピークに達してしまい、固い返事しか出来ない。

「緊張するな、と言うのが、間違っているかもしれないが……」

 吉羅は戸惑うように言うと、いきなり香穂子の手を強く握り締めてきた。

 吉羅に手を強く握り締められて、香穂子は一瞬、息を飲む。

 同時にやらなければならないという想いと、甘い感情がわき上がってきて、香穂子に自信をもらたしてくる。

 絶対に出来る。

 いや、やらなければならない。

 そんな根拠のない自信が、香穂子の背中を大きく押してくれた。

 大丈夫だ。

 転科試験ぐらい、乗り越えることが出来る。

 そう感じた。

「……頑張りたまえ。いつも通りにすれば、力が発揮出来るだろう。私が転科を推薦した、君ならば」

 吉羅は、香穂子の瞳をしっかりと見つめて、勇気を沢山詰め込んでくれる。

 大丈夫。

 そう思えてくるのだから、不思議だ。

「有り難うございます。頑張れます」

「それは良かった」

 吉羅は薄く笑った後、スッと香穂子の手を離した。

「では、私は仕事に戻る」

「有り難うございました」

 香穂子は深々と吉羅に頭を下げる。

 これならばきっと頑張れる。どんなことがあっても。

 転科試験ぐらい、簡単に乗り越えられるだろう。

 吉羅の堂々と洗練された背中を見送りながら、香穂子は温かな気持ちでいっぱいになっていた。

 先程までの情けない緊張が、本当に嘘のように感じられた。

 これなら、大丈夫。

 香穂子は、静かに自分の番を待つことが出来た。

「日野さん、お願いします」

「はい」

 転科試験担当者が呼びにきた。

 香穂子は、自分でも信じられないぐらいに、緊張していないことに、まずは驚いてしまう。

 試験会場入口で、土浦とすれ違う。

「日野、頑張れよ」

「うん、有り難う、土浦くん、頑張ってくるよ」

 不思議と笑顔で応えられた。土浦もホッとした笑顔をくれる。

「ああ。行ってこい」

 香穂子は不思議と気持ちを落ち着けて、試験会場に入った。

「日野香穂子です。宜しくお願いします」

 堂々と名前を名乗り、香穂子は深々と頭を下げる。

 香穂子のなかで、やらなければならない、スイッチがかっきりと入った。

 今は、ヴァイオリンだけに集中する。

 香穂子はヴァイオリンを奏でると、課題曲を歌うように奏でる。

 ヴァイオリンを奏でながら、不思議なぐらいに楽しくて満たされた気持ちになった。

「はい、そこまで!」

 声がかかり、香穂子ははっと息を飲んでヴァイオリン演奏を止めた。

「では、控室に戻って下さい」

「はい」

 香穂子はそのまま静かに頭を下げると、試験会場から出た。

 合格か不合格かは、直ぐに言い渡される。

 実技だけの上、今日の試験は香穂子と土浦だけなのだから、当然だ。

 土浦が待っている控室に、香穂子も戻った。

「その顔なら、会心の出来だったみたいだな?」

「まあ、楽しく弾けたよ」

「楽しいのなら構わないをんじゃないか」

「そうだね」

 やれることはやったと思っている。

 あとは、判断を任せるだけだ。

 それは土浦も同じらしかった。

 ふたりでとりとめのない世間話をしていると、ドアをノックする音が響く。

「日野、土浦、入るぞ」

 金澤の声が聞こえると同時に、部屋のなかに入ってきた。

「結果が出たぞ。お前らふたりとも合格。言うことなしだそうだ」

 流石に合格と言われると、香穂子は嬉しくて、満面の笑顔になる。

「おめでとさん、これから頑張れよ」

「有り難うございました」

 金澤が部屋から出ると、喜びが実感してくる。

 香穂子の脳裏に浮かぶのは吉羅の顔。

 吉羅にいち早く報告したかった。

「おめでとうな、日野」

「土浦くんもおめでとう」

 お互いに笑顔で健闘を讃えあった後で、香穂子は控室を飛び出す。

 早く、早く、吉羅に報告をしたかった。



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