*秋からのラヴソング*

14


 天羽に背中を押してもらったから、香穂子はがぜん勇気が出てきた。

 吉羅に逢おう。

 いや、逢いたい。

 香穂子は久々に理事長室へと向かった。

 ずっと自分からは行かなかったから、妙に緊張してしまう。

 こんなに緊張したことはないと思うぐらいに、香穂子はガチガチになっていた。

 別に喧嘩をした訳じゃない。

 香穂子が色々とひとりで気難しく考えていただけなのだ。

 行かなかったことへの香穂子なりのお詫びと、少しでも心配だと思ってくれているのであれば、そのお詫びも込めて。

 ヴァイオリンで一曲奏でられたら嬉しい。

 香穂子なりの謝罪を受け止めてくれたならば、これ以上に嬉しい事はないのだから。

 香穂子は深呼吸をすると、理事長室のノックをする。

 いつも馴れていた筈なのに、今日は妙に緊張した。

「理事長、日野です」

「入りたまえ」

 いつもと同じで少し飾りのない声にも、香穂子は笑顔になる。

 吉羅はいつもと変わらない。

 きっといつも通りに過ごしてきたのに、違いないだろう。

 香穂子は、こんなに思い悩んでいた時間を、吉羅が普段通りに過ごしていたかと思うと、それはそれで、恨めしいとも思った。

 だが、それでも良い。

 今は、会えるだけでも嬉しいと、香穂子は思った。

 

 香穂子が理事長室にやってきた。

 吉羅は思わず仕事をする手を止める。

 久し振りに会える。

 それだけで、一気に華やいだ気持ちになる。

 日野香穂子が絡むと、まるで恋する中学生のようになる。

 吉羅は思わず苦笑いをせずにはいられない。

 いつからこんなにも、恋する気持ちが止められないようになったのだろうか。

 とにかく、香穂子が理事長室に再び来てくれたのが嬉しい。

 バターたっぷりのガレットを出して、香穂子に珈琲を淹れて貰えば良い。

 吉羅は短時間に、あれこれと考えた。

 香穂子に久し振りに会える。

 それだけで気持ちが上がる。

 久し振りといっても、ほんの一週間程度、香穂子と逢っていないだけだというのに。

 今や、会いたくて、会いたくて、しょうがなくなっている。

 こんなに誰かに逢いたいなんて、これからも香穂子しかいないのではないかと、吉羅は思わずにはいられなかった。

「入りたまえ」

「失礼します」

 香穂子は、まるで昨日逢ったばかりだといった雰囲気で、部屋に入ってきた。

 こうしていると、とても幸せな気持ちになる。

 香穂子が昨日逢ったようにしてくれるのならば、こちらもなるべくぎこちないようにしたい。

「日野くん、音楽科への転科準備は進んでいるかね?」

「まあ、まあ、まあです」

 香穂子は苦笑いを浮かべる。

「何だか旗色が悪いようだが、どうしてかね?」

「音楽科の皆は、私よりも沢山音楽を専門に学んできています。私は高校生になってから、ヴァイオリンを始めたので、同じ授業を受けるには、少しでも追い付かないと。音楽理論や歴史なんて、学んだことがないので、今は、追い付くというよりは、少しでも授業に食らいついていけるように、頑張るだけです。その準備だとかで、バタバタしています」

 香穂子のような経歴の生徒が、音楽科に入ってくるのは、近年でも珍しいだろう。ただ、中学でブラスバンドをしていた生徒もいることはいる。

 だから、ついて行くのはかなり大変だろう。

「辛いかね?」

 吉羅は厳しい眼差しをわざと向けて、香穂子をまっすぐ見た。

 だが、香穂子は怯むことはなかった。

 素直に吉羅を見つめ返す。

「いいえ。大変と辛いは違います」

 キッパリと言い切った香穂子に、吉羅は益々好感を持つ。

 確かにそうだ。

 こちらに来なかったのも、あくまでやることが多くて、大変で、余裕がなかったということだけなのだろう。

「なるほど。忙しかったようだね」

 吉羅は頷くと、立ち上がる。

「少し休憩をしよう。ガレットがあるから、珈琲を淹れてくれると、助かる」

「はい」

 甘いガレットと苦味のある珈琲。香穂子と過ごす時間にはぴったりの組み合わせだ。

 香穂子とふたりでのんびりと出来る時間が、吉羅にとっては宝物だ。

 また、来てくれて良かった。

 心配していたことが杞憂ですんで良かった。

 吉羅は、このかけがえのない時間を、何よりも大切にしようと決めた。

 

 香穂子は珈琲を淹れる。

 吉羅のために美味しくなるように願う。

 吉羅に珈琲を淹れるのは、かなり久しぶりのように思う。

 実際には一週間、空いてはいないのであるが。

 とても良い匂いがして、香穂子は気分が上がってゆく。良い音を奏でることが出来そうだった。

 香穂子が珈琲を持ってゆくと、吉羅がガレットの準備をしてくれていた。

「甘いものは、脳を活性化させてくれるからね。仕事も捗るよ」

 吉羅のことばに、香穂子も思わずニンマリとしてしまう。確かに、甘いお菓子は、頭の疲れを取ってくれる。

 ならば精神的な疲れを取ってくれるのは、極上の音楽ではないだろうかと、香穂子は思った。

 極上の音楽は、癒しを与えてくれるのは、間違いない。

 吉羅と向かい合って、珈琲とガレットを口にする。

 幸せの味だ。

 ふたりでこうして、ひとときを過ごすだけで、幸せが溢れだした。

 なにげのない日常のなかにある幸せが、一番だ。

「転科まで余り時間がないからね。しっかりと励みたまえ」

「はい」

 転科をするまでは、本当に余り時間がない。

 だが、厳しい準備期間も、吉羅とのひとときがあれば、頑張れる。

「理事長、準備の進み具合を音で確認されますか?」

「そうだね。聞かせて貰おうか」

「はい」

 香穂子は立ち上がると、ヴァイオリンを準備する。吉羅とは、ヴァイオリンで結ばれている絆だから、音を奏でるのが、互いの一番の理解を深めるような気がする。

 香穂子はヴァイオリンを構えると、奏で始める。

 珈琲をテーマにした曲だ。

 吉羅が好きだと聞いて、一所懸命、練習をした曲なのだ。

 香穂子は、吉羅にプレゼントをするような気持ちで、ヴァイオリンを奏でる。

 吉羅への想いを乗せるだけで、香穂子はヴァイオリンが歌っているような演奏をすることができた。

 ヴァイオリンを奏でると、吉羅は静かに拍手をしてくれた。

「悪くはなかったよ。だけど、君は、この曲の本当の意味を分かっているのかね?」

 吉羅はほんのりと意地悪に微笑んでみる。

「意味ですか……?」

「男女の深い意味での愛だということに気付いているかな?」

 吉羅の指摘に、香穂子は真っ赤になるしかない。

 まさに、ヴァイオリンで吉羅に愛を語っていたのだから。



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