*未来の日々*


 小さな頃からずっと憧れていた女性。
 大地よりも7歳年上の、ヴァイオリンが大好きな女性。
 大地と同じように普通科にも拘わらず、ヴァイオリンを奏でることを楽しみ、プロになったひとだ。
 そして今も学院と拘わり続けている。
 幼い頃は本気でお嫁さんにしたいと思っていたものだが、その願いは叶わなかった。
 憧れの女性は、何と、大地が通う学院の理事長と結婚してしまったのだから。
 理事長とは高等部時代から密かに恋人同士だったと聞いている。
 きちんとした形で付き合い始めたのは、大学に入ってからだが、ふたりはとても素晴らしい愛を育み、結ばれた。
 憧れの女性は、今はプロのヴァイオリニストになっている。
 大地もまた、彼女に憬れて十歳でヴァイオリンを習い始め、やがでヴィオラに転向した。
 学院の音楽科に入る実力はあると言われたが、結局、大地は普通科を選んだ。
 有名名門大学への進学率の高さが決め手になったのだ。
 音楽だけでは生きて行くことは難しい。
 それを解っていたからだ。
 世の中を渡る為に、敢えて普通科を選んだ。
 大地は、ロマンティストを演じているリアリストであることを、自分で一番解っていた。
 授業が終わると、教師に呼び止められた。
「榊、理事長がお呼びだ。理事長室に行くように」
「はい」
 理事長である吉羅暁彦のことはよく知っている。
 何せ結婚式にも参列したのだから。
 大地は新婦側に呼ばれたのだ。
「…話って何かな…。アンサンブルの全国大会のことは、前回みんなで聞いたしな…」
 アンサンブルの全国大会の絡みだろうとは予想をつけながら、大地は理事長室へと向かう。
 理事長はかつての恋のライバルだ。
 勿論、理事長自身はそのようなことはかけらも思ってはいないだろうが。
「…あ、榊さんだよ…。相変わらず素敵だね…」
 下級生が囁きながらこちらを見ている。
 ひとと接するのは嫌じゃないし、香穂子と接することが多かったから、特に女子とは接しやすいとは思っている。
 優しくするほうが、相手にも自分にも気持ちが良いと思っているから。
 ただそれだけで接しているうちに、“フェミニスト”でナンパなイメージを、多くの人間に抱かせてしまった。
 本当は軟派な人間どころか、鉄のように硬い部分が多い。
 だが、今さら否定をするのは面倒だし、それにイメージは抱くひとの自由だ。
 だからずっとパブリックイメージは変えないままでいる。
 だが、同じオケ部の部長で友人の如月には、本質的な部分はバレてしまっているが…。
 ナンパなフェミニストに見られているのは、この容姿も影響しているのかもしれない。
 大地は、ゆっくりと理事長室へと向かう。
 理事長と言えば思い出すのは、やはり初恋のひと。
 子供が生まれて、益々美しくなっている。
 あのきらめきは本当に眩しくて、大地の憧れでもある。
 久し振りに逢いたい。
 そんなことを大地は考えていた。
 理事長室のある特別棟に入り、ゆっくりと階段を上がっていく。
 何だか懐かしくて温かな雰囲気に包まれているような気がした。
 本当に温かくて、大地はつい優美な微笑みを零す。
 同時に、最近、気に入っている温かな雰囲気が強くなってきた。
 春の木漏れ日のように温かな優しい光。
 かつて憬れた女性と同じ質の素敵な温もりだ。
 ひょっとして、彼女も呼ばれているのかもしれない。
 温かな雰囲気の彼女も。
 理事長室がある最上階まで上がりきると、後は重厚な扉をノックするだけだ。
「理事長、榊です」
「ああ。入りたまえ」
「失礼します」
 大地が扉を開けると、ふんわりと温かな雰囲気が飛び込んできた。
 いつもは硬い雰囲気でそれこそ“シベリア”な雰囲気なのに、今日はまるで常春にでも来たかのような温か な雰囲気だった。
 子供の楽しそうな笑い声と、いつもは硬い雰囲気の理事長が優しい温かさを滲ませている。
 一瞬、榊は部屋を間違えたのではないだろうかと思った。
「…理事長室ですよ…ね…?」
 戸惑いながら大地が言うと、吉羅は苦笑いを浮かべた。
「そうだが、いつもと雰囲気が違うから驚いているのかね?」
「まあ、いつもの冷たい雰囲気からは考えられないというか…」
 大地の言葉に、温かなくすりとした笑い声が響いた。
「お久し振りね、大地くん」
 優しい声は記憶のなかと同じだ。
 笑い声が愛らしい小さな女の子を膝に乗せた女性が、ゆっくりと振り返った。
「香穂子さん…!」
 優しい笑顔も温かな雰囲気も以前と全く変わらない。
 本当に懐かしい。
 それどころか、以前よりも美しくなった。
 愛する大人の男にしっかりと愛されると、女性はこんなにも綺麗になれるのかと、大地は思った。
 出来るのならば、自分も愛する女性をしっかりと愛して、綺麗にしたいと思った。
 本当に、今の香穂子はダイヤモンドよりも輝いているのではないかと、大地は思う。
 不思議と悔しい想いはなかった。
 むしろ清々しい幸せを分けて貰ったという感情のほうが大きかった。
 大地が、かつて子供の頃に戻って、恋愛感情というよりは、憧れのまなざしで香穂子を見ていると、幸せそうな優しいまなざしに気付いた。
「榊先輩は日野香穂子さんと幼馴染みなんですね。とっても羨ましいですよ」
 今、大地の気持ちを一番癒してくれる声が聞こえて、そちらに意識を向けた。
 そこには、オケ部の後輩小日向かなでが愛らしい笑顔を浮かべながら、座っていた。
「かなでちゃん」
 大地が声を掛けると、日向の花のような笑顔になる。
 本当に名前通りの愛らしさだと思った。
「榊君、小日向君、アンサンブルの全国大会優勝を是非ともなしとげて貰いたい。そこで、君達のサポートとして、日野香穂子をつけようと思っている」
 吉羅がいつも以上に事務的なのは、妻を目の前にしている照れなのかもしれない。
 そう思うと、大地は何だか微笑ましいとすら思った。
「私も学院でアンサンブルを組むことで成長したから、皆さんにもそのあたりをお伝え出来ればと思っています。宜しくお願いしますね」
「有り難うございますっ。こちらこそ、憧れの日野さんに色々とお話して頂けるのが、とても嬉しいです。有り 難うございます」
 かなでは何処か緊張しているように言うと、香穂子に深々とお辞儀をした。
「香穂子さん、宜しくお願いします」
大地も深々と頭を下げる。
 すると香穂子は穏やかに微笑むと、幼い娘を吉羅に託して、そっと立ち上がった。
「こちらこそお願いしますね」
 香穂子が深々と頭を下げて、顔を上げた時、大地は驚いた。
 お腹がふんわりと突出ている。
「…香穂子さん、赤ちゃん…?」
「…そうなの」
 香穂子は幸せそうに微笑んでいる。
「仕事は産休させてはいるが、君達の臨時講師には妻が適任だと思ってね。余り無理はさせられないが、 君達をサポートしてくれる。君達も宜しく頼むよ」
「はい、有り難うございます」
 吉羅がさり気なく妻を気遣っている。
 その甘くて温かい雰囲気に、かなでと大地は当てられてしまった。
「…では行って良いよ、今日は顔見せだけだからね」
「はい、有り難うございました。失礼します」
 大地はかなでとふたりで頭を下げた後、理事長室を出た。
 何処となくふたりでごく自然に手を結びあい、微笑みあう。
「頑張ろう、全国大会」
「はいっ!」
 ふたりで笑顔で誓いあった。

 大地とかなでが出て行った後の理事長室で、香穂子と吉羅は微笑み合う。
「ヴァイオリンロマンス、再び…ですね?」
「そうだね」
 ふたりで微笑みあうと、幸せな気分に浸っていた。



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