11
吉羅とふたりで月森のディナーコンサートに向かう。 それだけで、香穂子はロマンティックな気分になる。 幸せで華やいだ気持ちになった。 コンサートの為だということで、吉羅は品のあるシンプルなのに可愛いワンピースをプレゼントしてくれた。 「有り難うございます。大切に着ますね」 「ああ」 プレゼントが嬉しくて礼を言うと、吉羅はクールに頷いてくれただけだった。 吉羅らしい。 当時は、吉羅と釣り合いが取れる女性になれたら良いと思わずにはいられなかった。 少しでも吉羅と釣り合えるようになりたい。 少しでも吉羅と「似合い」だと思って貰いたい。 ただそれだけだ。 ふたりで並んでいれば、最高のカップルだと思われたいと思うのが、やはり女心だ。 香穂子は背筋を質すと、なるべく綺麗になれるように、頑張っておしゃれをすることにした。 プロにしてもらうよりは、些か綺麗にはなれやしないが、それでも香穂子は精一杯おしゃれをした。 愛する男性のために綺麗になりたい。 それが香穂子にとっては一番だ。 何度となく鏡で見直した後、香穂子は吉羅との待ち合わせ場所である、会社に行くことにした。 いつまで経っても、吉羅の会社の雰囲気には慣れない。 当然かもしれない。 何だか冷たくて暖かみがないように思えるからだ。 受付で声を掛けてから、香穂子はエレベーターでCEO室へと向かった。 吉羅に逢えると思うだけでドキドキする。 CEO室前の秘書室に入ると、以前と違って温かい雰囲気に驚いた。 「こんにちは、香穂子さん」 秘書も打ち解けたような優しい声で話してくれる。 これには香穂子も驚きだった。 「こんにちは。あ、ミッドタウンで人気のカップケーキを買って来ました。皆さんでどうぞ!」 「有り難うございます」 差し入れのケーキを手渡すと、秘書の表情が益々綻んでいた。 「奥のお部屋にどうぞ。CEOは会議でいらっしゃいませんが、間も無く戻って来ますから」 「有り難うございます」 「お茶でもいかがですか?」 「有り難うございます。ですが、自分で出来ますから大丈夫ですよ。お仕事をされて下さいね」 「有り難うございます」 香穂子は秘書に頭を下げた後、奥のパントリーへと向かう。 吉羅が直ぐ戻ってくるのならば、紅茶を淹れて待っていよう。 香穂子は、手早く紅茶の準備をする。 吉羅は、どちらかと言えば紅茶派なのだ。 そのあたりも香穂子と気が合うところだった。 紅茶を淹れていると、パントリーの奥の扉が僅かに開いていることに気が付いた。 香穂子が来る度に、厳重に鍵がかけられていた扉だ。 仕事の重要機密などがあるのだろうか。 そんな大切な部屋を、吉羅暁彦が無防備にしているとは思えない。 香穂子はドアを閉めてあげようと、そのノブに手を掛けた。 その隙間からは、明るくリラックス出来るような空間が広がっている。 じっといたくなるような雰囲気だ。 ふと、白のサイドボードの上に、誰かの写真が沢山美しく飾られているのに気付いた。 誰の写真なのだろうか。 女性の写真であるのには、間違ない。 誰なのか見てみたい。 吉羅の昔の恋人であったらどうしたら良いのだろうか。 思わず中に入りたくなった。 「…何をしているのかね?」 冷徹に厳しい声が背後から響き渡り、香穂子は背筋が凍る想いがした。 「…暁彦さん」 ゆっくりと振り返ると、そこには今までで一番厳しい顔をした吉羅暁彦が立っていた。 「…君は油断も隙もないね…」 「…暁彦さん…、私…」 「そこは立ち入り禁止だ。誰にもこの空間は許してはいない」 香穂子にピシャリと言い放つと、吉羅は扉の鍵を閉めた。 「…君は産業スパイなのかね…? そのような真似ごとはすべきではない」 吉羅不快そうに目を細めて香穂子を威嚇するかのように見つめている。 恐ろしかった。 ついうっかり見ようとした自分が悪いのは解っているから、香穂子は何も反論することが出来なかった。 「…ごめんなさい…」 香穂子が肩を落としてしゅんとうなだれると、吉羅はしょうがないとばかりに溜め息を吐いた。 「…香穂子、紅茶を頂こう」 「はい」 吉羅はそれ以上は何も言う事はなく、静かに紅茶を楽しんでいた。 先程のことが気まずくて、香穂子は何も言わなかった。 あの部屋は、吉羅にとっては、かなり大切な部屋だったのだろう。 そこに香穂子は土足で踏み入れようとしたのだ。 吉羅が怒るのは、至極、当然のことのように思えた。 愛する女性との想い出の場所なのかもしれない。 そこに彼女とふたりで甘い想い出を作っていたのかもしれない。 そう考えるだけで、香穂子は益々泣きたくなってしまった。 紅茶を飲んでいる間もずっとそのことばかりが頭の中をぐるぐるとかけめぐる。 そんな想いで飲んだ紅茶は、かなり苦かった。 車に乗り、コンサートのあるレストランへと向かう。 その間も話さない。 何も言うことがないまま、レストランの駐車場に着いてしまった。 吉羅は何事もなかったかのように、香穂子をエスコートしてくれる。 香穂子が車から降りると、吉羅は、香穂子の手をギュッと握り締めた。 そのままレストランへと入る。 ふたりの席は、ゆったりとした場所で、ステージをじっくりと見ることが出来るポジションだった。 「ここからだと、月森さんのヴァイオリンがよく聞こえますね」 香穂子は、少しでも月森に近付きたいと思い、つい本音が出てしまう。 「君は月森君を見たいのではなく、聞きたいんだね」 吉羅は苦笑するように言うと、香穂子を見た。 「もちろんです。月森さんのヴァイオリンは、同世代ならば最高のものだと思っていますから」 「そうか…」 いつもはクールで厳しい吉羅のまなざしが、僅かに緩む。 香穂子はそのまなざしに惹かれてしまう。 「良いヴァイオリン演奏は、沢山聴けば聴くほど勉強になりますから…」 「確かにね」 「…ここだったら、月森さんの指の動きも見ることが出来ますから…」 香穂子の言葉に、吉羅は益々苦笑いを浮かべた。 「君は本当に、ヴァイオリンのことを常に考えているんだね」 吉羅は、夫が妻に向けるのに相応しいまなざしを向けてくれる。 それが、香穂子には嬉しかった。 本当に、ヴァイオリンと吉羅のことしか常日頃は考えてはいないと思う。 香穂子は自分自身に苦笑いをしてしまう。 「そろそろ始まりますね…」 「そうだね」 レストランの照明が落とされて、指定したアペアリフや、ソフトドリンクが運ばれて来る。 今夜はふたりとも、スバークリングミネラルウォーターだ。 ふたりはグラスの水を軽く飲みながら、月森の演奏を聴く。 本当に綺麗で巧みなヴァイオリン演奏だと思う。 冴えて透明感がある月の光のようだ。 それを聴いているだけで、香穂子は身がひき締まる思いがした。 流石に月森は巧い。 香穂子は少しでも近付きたくて、真剣そのものの顔で聴いている。 月森の技巧には到底及ばないのは解ってはいる。 だが、その素晴らしい技術を少しでも盗めたらと思わずにはいられなかった。 演奏が一旦終わると、食事が運ばれてくる。 「香穂子、顔が強張っている。楽しんでいるようには見えない」 吉羅は痛いところを突いて来る。 「君と月森君のヴァイオリンは、性質が違う。彼が月光ならば、君は温かな春の太陽だ。君の音は人々を癒して、音楽の楽しさを教えてくれる」 吉羅の言葉に香穂子は驚く。 同時に嬉しくてしょうがなかった。 |