10
吉羅と本当の意味で夫婦になれた。 香穂子にとって、この意味はかなり大きくて、自信に繋がる。 吉羅とこれからもずっと一緒にいられる。 そのような幸せが、香穂子の内側から込み上げてきた。 吉羅と一緒にいたい。 この先、ずっと寄り添っていられたら良いのにと思う。 吉羅と朝食を取るだけでも、香穂子はそれは幸せに気分になる。 ふたりで顔を合わせて食事をしながら、香穂子が幸せな気分を味わっていた時だった。 「香穂子」 声を掛けられて、香穂子はにっこりと微笑む。 「私たちの子供が欲しいと思っている。近いうちにね」 吉羅はストレートに子作りが必要だと言ってきた。 照れなどは全くなく、あくまでクールでしかも直球だ。 流石に香穂子はドキリとした。 子供が今すぐ必要だから呼び寄せたのだろうか。 そんな穿った考えが過ぎる。 今までの経緯からは仕方がないとは思うが、そんなことはないのだと、自分自身には言い聞かせたかった。 確かに香穂子も吉羅の子供は欲しいと思っている。 吉羅の子供がいたら、なんて幸せな毎日が送れるのだろうかと、そんなくすぐったい想像をしたこともある。 だからこそ嬉しさと切なさの複雑な気分だった。 「…黙っているが…、君はどうなのかね?」 「あ、あの…、二人でもう少し一緒にいたいと思ったり、或いは赤ちゃんが欲しいと思ったりもします。暁彦さんの赤ちゃんなら、欲しいと思っていますし…」 「有り難う…」 吉羅はフッと笑うと、香穂子の手をギュッと握り締めてくれる。 その強さは、確かに強い愛情を感じられた。 「…じゃあ、子供を作ることには異論はないんだね?」 「はい」 それは本当のことだから、香穂子は素直に頷いた。 「君が言うように、二人きりの時間もなるべく取るようにしよう…。二人で時間を作りながら子供を得ることに対しては、君はどう思うかね?」 「それならば、勿論、笑顔で頷きます」 本当に吉羅がずっと一緒に過ごしてくれるというのならば、これ以上に良いことはない。 吉羅と一緒にいられる時間が多ければ多いほど、香穂子には最高の幸せな時間となるのだから。 「だったら君と長く一緒に過ごせるように、私も努力をしよう」 「有り難うございます」 香穂子は、吉羅が最大限気遣ってくれているのが分かり、そこは感謝する。 吉羅と共有する時間が増えれば、香穂子にとっても幸せな時間がそれだけ増えるということなのだから。 だが、ここでひとつだけ疑念が残ってしまうのも確かだ。 吉羅はどうして、急に子供が欲しいと言ってきたのだろうか。 跡継ぎ問題で何かあるのだろうか。 流石に、吉羅が名門の出身であるがゆえに、香穂子はそこを強く考えてしまう。 「…跡継ぎが欲しいんですか…?」 香穂子が柔らかく訊くと、吉羅は僅かに唇を歪めた。 「確かにね。だが…、私は自分の子供の選択肢を狭くするようなことはしたくはないからね、そこまでは明確に考えてはいない。純粋に子供が欲しいと思っている。それだけの理由ではいけないかね?」 吉羅はあくまでかなりクールだ。 淡々と話していると言っても良い。 だが、香穂子は、吉羅の言葉をなるべく信じたいと思っていた。 自分も同じ気持ちだからだ。 「私も純粋な気持ちで、吉羅さんの赤ちゃんが欲しいと思います」 「だったら、私たちの気持ちは一致ということで良いね」 「はい…」 吉羅の言葉に、香穂子は頷く。 子供を持つことで、ふたりの気持ちが更に重なれば良いと、思わずにはいられなかった。 約束通りに、吉羅はなるべく香穂子と一緒にいるように時間をやり取りしてくれている。 香穂子には、これはかなり嬉しかった。 吉羅とふたりで過ごす時間は、香穂子にとっては幸せ以外の何もなかった。 本当に幸せだ。 愛し合う時も、至福の時間を重ねることが出来る。 香穂子は、本当に幸せな気分で時間を過ごすことが出来るのが、嬉しかった。 今日は、楽しみにしていた仕事であるレストランコンサートのリハーサルがある。 ヴァイオリン演奏が出来るのが嬉しい。 香穂子にとって、ヴァイオリン演奏は、吉羅と共に心の拠り所になっている。 今クラシック演奏をメインにしている高級レストランでの演奏依頼で、若手がここで演奏をすれば大成するという伝説のある仕事だ。 このレストランでは、一流の演奏家以外は呼ばれるけとはなく、香穂子はそれだけでも感激だった。 リハーサル時間も入念に取ってくれるのが有り難い。 香穂子がリハーサルをしていると、月森が会場に入ってきた。 「日野さんが今度の演奏者?」 月森に言葉に、香穂子は嬉しい驚きを抱きながら頷いた。 「そうですよ。私は来週です」 「おれは明日の夜に出演するんだよ。君のリハーサルが終わったら、おれも軽くリハーサルをすることになっている」 あの月森蓮と同じ会場でヴァイオリンを演奏出来るなんて、こんなにも嬉しいことはない。 香穂子は、ときめきと嬉しさが交互にやってくるのを感じた。 「明日ですか」 「ご主人と一緒に来ないか?」 「だけど、チケットはソールドアウトではないですか?」 「二枚目なら用意が出来る。おれの知り合いが行けなくなってしまってね。君さえ良ければ…だが…」 月森の演奏ならば聴くだけでもかなり勉強になる。 ヴァイオリンを練習してその技術を上げるのも大切だが、やはり聴くのも大切だ。 「…嬉しいです、とても。月森さんのヴァイオリンは、聴くだけでもかなり勉強になりますから」 「だったら、是非」 月森はあくまで落ち着いた風に言ってくれるが、言葉の端々には温かさが感じられた。 「…主人にも訊いてみます」 「ああ。是非、そうして欲しい」 「はい」 吉羅と月森の演奏が聴けたら、勉強よりもロマンティックな気持ちが勝る。 香穂子は想像して思わずにんまりと笑ってしまった。 「リハーサルが終わったら主人が迎えに来てくれるんです。だから、少しの間、待っています」 「ああ」 香穂子は月森に頭を下げる。 「私のリハーサルはここまでです。有り難うございました」 香穂子が笑顔で礼を言っていると、吉羅がいつもよりもクールなまなざしでこちらを見つめながら、やってきた。 「待たせたね、香穂子」 「有り難うございます、暁彦さん」 香穂子が笑顔で挨拶をしたというのに、吉羅はいつもよりもかなり冷たい表情になった。 吉羅を見つめていると、何だか怒っているようにしか見えない。 「暁彦さん、私の前のコンサートは、月森さんだそうです。暁彦さんと一緒にコンサートに誘って下さったんですよ」 吉羅は冷たく眉を上げた後、冷た過ぎるまなざしを月森に向けた。 「…月森君、妻共々、誘ってくれて有り難う。ふたりのスケジュールを調整して、伺うと思う」 吉羅は淡々と話す。 吉羅の態度からして、反対されると思っていたのだが、そうではなかったことに、香穂子はホッとしていた。 「…有り難うございます。暁彦さん」 つい笑顔で吉羅を見上げる。 「それでは楽しみにしていますよ」 月森はあくまで礼儀正しく言うと、「失礼」とリハーサルに入っていった。 吉羅とふたりでその姿を見つめていると、不意に手を思い切り握り締められた。 「長居は無用だ。行くよ」 「はい」 吉羅にしっかりと手を引かれながら、レストランを後にする。 吉羅は無言だったが、明らかに機嫌は悪そうだ。 その原因が何なのかは、香穂子にはよく解らなかった。 |