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恋などしないと思っていた。 特に日野香穂子には。 こんなにも恋に溺れてしまうなんて、思いもよらなかった。 恋なんて、愛なんて、自分にとっては最も必要ないものだと思っていたのに。 今は、それこそが生きる最も大きな糧になってしまっている。 いつの間にかまなざしで追いかけるようになってしまった少女。 いつも一生懸命で、負けん気が強くて、元気いっぱいな、生命力が溢れる少女。 一まわり以上離れている“女の子”など、ただのガキにしか見えなかった。女子高生だろうが、2歳の女の子であろうが、吉羅にはさして違いがなかった。 吉羅のなかでは、女子高生は女ではなかった。 なのにどうしたことなのだろうか。 校庭に出ればその姿を探し、普通科棟に出れば、いつも視線で追いかけてしまう。 全く馬鹿げている。 最初はこんな感情は恋ではないと思っていた。 情事ならばよく知っているところであるが、恋愛となると今まで経験などはなかった。 家族以外の人間を愛したことなどなかった。 正確に言えば、家族に対する愛情と、他人のしかも異性に対する情は違う。 その違いですらも、吉羅は最近知ってしまった有様だ。 唯一知らなかった感情を教えてくれたのは、凜とした明るくも前向きな瞳を持った少女だった。 吉羅が最も欲しいと思ったものを、総て持ち合わせている不思議と魅力的な少女。 将来は美人になる予感はするが、それでも絶世の美女のような雰囲気はない。 だが見れば見る程、魅力的に映るのが不思議だ。 きっと磨けば最高の女になるだろう。 スタイルも容姿も、こころも…。原石にしては最高のものを持っていると、吉羅は感じていた。 あの原石を磨く役は自分であって欲しい。いや、自分でなければならないような気がする。 ヴァイオリニストとしても、コンミスの試練を与えることで、より成長させたいと思っているとは、きっと日野香 穂子自身は露にも思ってはいないだろう。そのように思わせないように仕向けては来たのだが。 香穂子を磨いて最高の女に、ヴァイオリニストに。 そうすることに援助は惜しまないつもりでいる。 あの原石を磨きたい。 かつて姉が奏でた“ジュ・トゥ・ヴ”を奏でた香穂子の音を聴いた瞬間に、そう思った。 あの旋律も、奏でる香穂子も、魅力的な女だった。 背中が震えるほどに、吉羅は香穂子に女を感じた。 いつもはあどけないのに、ヴァイオリンを奏でる姿は、呼吸を止めてしまいそうになるほどに、異性として吉羅を惹きつける。 学院に出勤が出来る日には、香穂子の様子をさり気なく見守っていた。 顔色が悪くないかだとか、元気そうにしているかといった、本当に他愛のないことばかりをチェックしている。 コンミスに指名したことが香穂子の負担になるのは承知している。だが、香穂子なら充分に乗り越えていけると思っているし、乗り越えなければならない壁だと、吉羅自身も思っている。 だからこそ試練を与えたのだ。 日野香穂子のヴァイオリンの腕も、こころの強さも信じていたから。 放課後の賑やかな学院の喧騒を聴きながら、吉羅は仕事に集中する。 いつの間にか外は暗くなっていて、学院正門が閉まる時間帯になった。 この後は自宅に戻って仕事をしようと思い、吉羅はブリーフケースに書類を持ち込んで理事長室を出た。 生徒達は帰ってしまったのだろう。音楽科棟はすっかり静まり返っている。 ふと練習室の前を通り掛かると、一室だけ明りがついている部屋を見つけた。 不躾だとは思ったが、吉羅はノックもせずに練習室を開ける。 「直ぐに閉門だ。速やかに帰りたまえ」 吉羅がどこか冷酷に告げると、そこにいたのは日野香穂子だった。 香穂子は驚いたようだったが、直ぐに時計を見て、慌てて片付ける。 「す、すみませんでした。直ぐに出ます」 「熱心なのは結構だが、時間を忘れて貰っては困る」 吉羅が冷たく言い放つと、香穂子は一瞬ー唇を噛み締めた。 香穂子が片付ける様子を見つめながら、吉羅は小さな溜め息を零す。 どうしてこんなにも冷たくしか出来ないのだろうか。 香穂子が咳をしながら、片付けているのが気になり、吉羅は眉根を寄せた。 万全な体調でないと、良い音は奏でられないだろうに。香穂子は健康を犠牲にしてまで練習している。 姉のことを思い出し、吉羅は胸に鈍い痛みを感じた。 何処までも真っ直ぐだった、清らかで美しいひと。 そのひとはヴァイオリンを愛するが故に、自分の健康すらも犠牲にして、逝ってしまった。 姉と香穂子が重なる。 吉羅は切ない息苦しさを感じた。 「…すみませんでした。理事長。失礼します」 香穂子は咳をしながら鼻声のままで頭を下げると、練習室から出ようとする。 「待ちたまえ、日野君」 吉羅が香穂子の華奢な腕を取ると、大きな瞳が驚いたように見開いた。 「…理事長?」 「風邪を引いているのか?」 「お姉ちゃんに移されたんですけれど、大丈夫です。熱はないですから直ぐに良くなります」 香穂子はいつもよりは少し元気はなかったが、それでも明るい太陽のような笑みを浮かべた。 「病院へはちゃんと行っているのかね?」 「大したことはないですから、大丈夫ですよ。栄養を取ってぐっすり眠れば、市販のお薬で充分ですから」 香穂子は何でもないことのように明るく言うと、吉羅から離れようとする。だが、吉羅は離さなかった。 風邪を拗らせて酷くなっては困る。ただでさえ、香穂子には無理をさせているのだから。 「一緒に来なさい」 吉羅は有無言わせずに言うと、香穂子を強引に連れて行く。 せめて栄養だけはしっかりと取らせたかった。 「日野君、コンミスを務めるには、何よりも健康に気をつける事が大切だ。解っているのかね?」 「解っていますけれど…」 香穂子はごにょごにょと歯切れ悪く言うと、また軽く咳をする。 「大丈夫かね!?」 「大丈夫です」 香穂子は真っ赤になりながらも笑顔で答えようとする。 それがまた吉羅のこころに切なく響いた。 健気なのは良いことだ。 しかし、香穂子を姉のようにはしたくない。 ふたりはあらゆるところで似過ぎているから、そんなことをさせたくはなかった。 「家まで送る。日野君、着いて来なさい」 「歩いて帰ることが出来る距離ですから」 「いいから」 吉羅がピシャリと言うと、香穂子は諦めたように頷いた。 香穂子は吉羅のほんの少し後ろを歩きながら、とぼとぼと着いてくる。 一瞬、香穂子は躰を震わせる。 「日野君、使いたまえ」 吉羅はふわりと香穂子の躰にコートをかけてやる。香穂子は華奢なせいか、かなりブカブカな印象だった。 「…有り難うございます…」 香穂子はほんのりと頬を赤らめると、自分の躰をギュッと抱き締めるような仕草をした。 香穂子の表情や仕草が、吉羅のこころに強く語りかける。切ないほどに甘くて苦しい感覚に、吉羅は深呼吸をして息を整えるしかなかった。 職員用駐車場に入ると、吉羅は香穂子に愛車のドアを開けてやる。 「…有り難うございます…」 「ああ」 吉羅はさらりと答えると、運転席に乗り込んだ。 香穂子は緊張しているのか、もたもたとシートベルトをする。それがまた可愛いらしい。 吉羅は静かに車を駐車場から出すと、短い時間のドライブを楽しむ。 横には愛しくてしょうがない少女を乗せて。 話などしない短いドライブ。なのにとても幸せで満たされた時間を過ごす事が出来る。 この時間が永遠に続けばと思わずにはいられなかった。 |