*無償の愛/天上の恋*


 いつの間にか目で追っていました。
 いつもクールで、どこか冷たさを感じるひと。
 物事を理路整然と考えて、感情などを抜きにして行動が出来るひと。
 非情と無情を絵に描いたような行動をするひと。
 最初はなんて冷たいひとだろうと思った。
 なのに…。
 瞳の奥の切なさと優しい不器用な光に気付いた時には、既に恋心はどうしようもないところに来ていました。
 あなたが世界で一番好きです。
 背伸びをして、あなたを愛しても良いですか?

 吉羅のコートはとても温かくて、胸が切なくなってしまうほどの大人の香りがした。
 苦しくなる程の疼きが香穂子のこころをじんわりと浸蝕していき、泣きそうになる。
 ギュッとコートごと自分を抱き締めていると、まるで吉羅に抱き締められているような気分になった。
 吉羅の逞しい腕に抱き締められたら、きっと躰の総てが蕩けてしまうに違いない。
 そう考えるだけで香穂子のこころはとろとろにとけてしまいそうになった。
「日野君、君の家は確かこのあたりだったね」
 吉羅の事務的な声に、香穂子はハッと息を呑む。慌てて視点を車窓に合わせて、今、どこにいるかを確認した。
「あ、あの、このあたりです。あのベージュっぽい塀の家です」
「解った」
 吉羅は緩やかに減速をすると、静かに車を家の前に停める。
 終わってしまったのだ。夢のような時間が。
 香穂子は寂しくて何故か泣きそうになってしまった。
「有り難うございました」
 震える手でシートベルトを外し、香穂子はぎこちなく車から降りる。
 吉羅が冷たく凪のないまなざしで見つめて来るものだから、余計に緊張してしまっていた。
 車を降りると、程なく吉羅も車から降りてくれる。
 そんなことをしなくても良いと恐縮したが、吉羅は止めることはなかった。
 あくまでビジネスライクな、香穂子とは距離を取った姿勢だ。
 吉羅が香穂子をじっと見つめてきたところで、コートを返さなければならないことに気がついた。
「あ、コートをお返しします」
 香穂子はおたおたと吉羅のコートを脱ぎ、差し出す。
「有り難うございました」
「ああ」
 吉羅はあくまでも冷たい。
 本当に隙などないように見えた。
 取り付くしまなどあるはずもない。
「助かりました。とっても。有り難うございました」
 再び深々と頭を下げると、吉羅はスッと目を細める。
「体調には気を遣うように。具合が悪ければ、速やかに対処をすることが大切な場合もあるからね」
 あくまでも一生徒として見ているのだ。
視線がこころに深く突き刺さってきた。
「今日は本当に有り難うございました。しっかり治します」
「ああ」
 吉羅は頷くと、流れるように車に乗り込む。
 吉羅の仕草のひとつ、ひとつがとても絵になっていて、香穂子は魅了されずにはいられない。
 吉羅はひと仕事を終えたような雰囲気を滲ませながら、車をゆっくりと闇へと走らせる。
 香穂子は吉羅の車が見えなくなるまで見送った後、深い溜め息を吐いた。
 こんなにも好きなのに、吉羅はきっと応えてはくれない。
 子供だから。子供過ぎるから。
 背伸びをした相手に恋心を抱かずにはいられない自分が、香穂子は切なくてしょうがなかった。
 吉羅を見送った後、流石に咳と鼻水が酷くなり、家へと駆け込んだ。
 食欲はあるので、しっかりと夕食を取る事にする。
 今日はどうしてもやらなければならないことをしたら、お風呂に入って直ぐに寝てしまおう。
 早く治さなければならないから。
 香穂子はもりもりと夕食を食べた後、宿題を済ませて、風呂にも早めに入り終える。
 ベッドに入ったのは、いつもよりも二時間近く早かった。
 吉羅は吉羅なりに心配をしてくれているから、早く治して明るい顔で姿を現さなければならない。
 だがきっと吉羅が心配しているのは、香穂子が学院にとって、大事なパーツだからに過ぎないからだろう。
 そう思うと、こころがどんよりと暗くなった。
 無駄なことはなるべく考えないようにしようと思いながら、香穂子は頭から上掛けを被る。
 いつの間にか、眠りが香穂子の瞼を快適に覆っていた。

 吉羅は自宅で書類に目を通しながら、一息吐いているところだった。
 香穂子は無事に眠っただろうかだとか、ちゃんと食事を取っているかなどと、つい考えてしまう。
 香穂子のことばかりを考えてしまう自分に、吉羅は苦笑いを浮かべていた。
 他の誰かのことを、今まで気にしたことなんて全くなかった。そんなことは無駄だとばかり思っていた。
 ビジネス上、自分に利益がないと判断すれば、吉羅はいつでも簡単に関係を切る事が出来た。
 今までで切れずに付き合ってきたのは、金澤を始めとする数人だけだ。
 特に女に至っては、後腐れなく切れそうな女だけを選び、面倒臭そうな女はあくまでビジネスな付き合いしかしなかった。
 日野香穂子は最も面倒臭い相手だろうか。いや、本当は最も面倒臭くない、逆に言えば吉羅の存在などは乗り越えることが出来る女なのかもしれない。
 吉羅は頭を冷やすためにシャワーを浴びに行く。
 視線でその姿を追うなんて今までにない。
 この腕に閉じ込めたいと、初めて思った相手だった。
 シャワーを浴びても、頭は冷えないどころか熱いままだ。
 躰も熱いのに、他の女を欲しいとは、抱きたいとは一切思わなかった。
 目を閉じると浮かぶのは香穂子の姿。
 愛などいらないんだ。
 そんなものに時間を割いている暇なんてありはしないのだから。
 煩わしいから自ら求めることなどなかったというのに、今はこころからそれを求めようとしていた。

 翌日、学院に行くと、香穂子は吉羅の姿を探した。
 昨日のお礼が言いたかった。
 恐らく引かれるとは思ってはいたが、お礼の品も持ってきたのだ。温かくなるように、吉羅が風邪を引かないように、コンビニで可愛いデザインの使い捨てカイロを買ってきたのだ。
 今日はいつもならば吉羅の出勤日ではないが、ほんの少しの期待を持ってしまう。香穂子はその姿を探しては、いないことに落胆していた。
「来るはずなんてないのに…。完璧にタイムスケジュールを立てる理事長が来るはずないじゃん」
 香穂子は大きく溜め息を吐くと、気を取り直して練習を始めることにした。
 冬の風はかなり冷たいが、今は外の風を浴びてヴァイオリンを弾きたい気分だ。
 香穂子は正門前の端に陣取ると、ヴァイオリンを奏で始めた。
 ラフマニノフのヴォカリーズ。綺麗な旋律で香穂子が大好きな曲のひとつだ。
 香穂子は目を閉じて、ヴァイオリンを奏でることに集中しながら、無心になって演奏した。
 演奏が終わり、大きく溜め息を吐くと、大きな拍手が聞こえてきた。
 顔を上げると、目の前には吉羅が立っている。相変わらず冷たい表情をしているが、拍手はしてくれていた。
「また上手くなったようだね、日野君。今の演奏はなかなかだったよ」
「有り難うございます」
 香穂子は素直に礼を言った後、もう一度頭を下げた。
「昨日は有り難うございました。お陰で風邪も良くなりました。有り難うございました」
 香穂子は一生懸命礼を言うと、ポケットからゴソゴソと使い捨てカイロを取り出した。
「昨日のお礼です。これでいつでも温かくなれますから。き、昨日、風邪を移したかもしれませんから、せめてこれを…」
 吉羅を見上げると、何処か困惑しているように見える。きっと子供だと思っていることだろう。
 香穂子が後悔していると、不意に吉羅は僅かな笑みを浮かべた。
「…有り難う」
 受け取ってくれたのが嬉しくてしょうがなかった。



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