*無償の愛/天上の恋*


 香穂子がプレゼントしてくれたのは、使い捨てカイロ。
 女子高生が選んだものらしく、可愛いイラストが入っている。
 自分には全く似合わないと思いながら、香穂子がくれたものだからと、大切に持ち歩いている。
 ささやかだが温かいプレゼントは、香穂子らしい。
 まるで御守りのように見つめる日々が続いていた。
 忘れ去った夢を、もう一度教えてくれた香穂子。
 忘れ去った、失った夢を、香穂子に託そうと思っている。
 彼女にしか出来ない。そう思っているから。
 香穂子なら、吉羅が想像出来ない夢を見せてくれるだろうから。

 中庭を慌ただしく歩いていると、香穂子がヴァイオリンを弾いている姿を見た。
 厳しい環境へと追い込んでしまっているのは、解っている。
 だが、それは香穂子にとっては必要なものであるだろうから容赦はしない。
 妥協はしないし、甘やかさない。
 香穂子なら如何なる厳しい状況でも、乗り越えていけるのは解っているから。
 香穂子は、どのような者のこころにも深く語りかけるような、温かな音を奏でている。
 多少、技術的にはたどたどしいところはあるが、それは直ぐに埋まるだろう。
 急いでいるはずなのに吉羅は香穂子の音を聞き入っていた。
 癒される。
 理事会で壮絶なバトルが繰り返されるなかで、正直、疲れ果てている。ストレスも相当溜まっている。
 だが、それも、香穂子の音を聴けば吹き飛んだ。
 香穂子が演奏し終えると、周りの生徒が拍手をする。普通科生徒は誰もが温かな拍手を送っているが、音楽科生徒は冷ややかだ。
 少なくとも学院の生徒は、今まで音楽の道でエリート街道を進んで来た者たちばかりだ。
 自分達は今まで相当努力をしてきたという自負はあるのだろう。だが、香穂子がヴァイオリンを始めたから、まだ一年も満たない。
 それどころか、短期間に音楽科の生徒を凌駕してしまうほどに上達をしているとなると、面白くないだろう。
 香穂子の背後から、音楽科の生徒がわざと聞こえるように話しているのが耳に入ってきた。
「…コンミスに選ばれたからって、大したこと無いじゃない。選んだ理事長と“特別なご関係”でもあるんじゃない」
 くすくすと嘲笑する声にも、香穂子は耐えている。
 本当は、自分が出ていけば、直ぐに助けてやることは出来るだろう。
 だが、それをすれば、香穂子を更に悪い方向に導いてしまうのを解っていたから、手を差し延べることが出来なかった。
 音楽科生徒がいなくなりひとりになると、香穂子は大きな溜め息を吐く。
「…相変わらず厳しいなあ…」
 何処か自嘲ぎみに笑うと、香穂子はヴァイオリンを抱き締める。まるで自分の唯一の味方であるかのように。
「…私はただヴァイオリンを弾くのが好きなだけなんだけれどな…」
 ひとりごちる香穂子を、吉羅は抱き締めてやりたくなる。
 だが、立場からも、香穂子のためにもそれが出来なかった。
 香穂子は、自分の躰のなかから嫌なものを吐き出すかのように溜め息を吐くと、大きく伸びをした。
「しょうがないけれどね。ヴァイオリン弾くのが好きだから、あーんなこと気にすることは出来ないんだけれどっ!」
 香穂子は持ち前の負けん気の強さと、ヴァイオリンを愛している気持ちで、何とか乗り越えているのだろう。
 だから本当に香穂子が立ち上がれなくなったところで、手を差し延べてやれば良いだろう。
 吉羅は、そっと香穂子から離れると、理事長室へと向かった。
 香穂子のためにも、より、音楽を勉強しやすい状況を作ってやらなければならない。
 吉羅はそのためならば、どんなことでも出来るような気がした。

 見守るような温かな雰囲気を感じて、香穂子は振り返った。
 そこには誰もいなかったが、吉羅の気配を感じた。
 そこにいて、ただ見守ってくれていた。それだけでも、ほんのりと温かな気持ちになってしまう。
 いつかこの音で、吉羅の冷えきったこころを温められれば。
 いや、本当は、温かなこころを、冷たい仮面を被っているだけかもしれない。
「頑張らなきゃねー」
 香穂子が中庭を歩いて練習場所を探していると、金澤が前から歩いてきた。
「日野、 ちょっと来い」
 手招きされて、香穂子は金澤に向かって走っていく。
「金澤先生」
「日野、お前、まだ転科の結論出ていないのか?」
「え、あ、コンミスに夢中で忘れていました」
 香穂子は罰が悪い気分になる。早々と転科を決めて、指揮科への内部進学を目指して勉強している  土浦とは違い、香穂子はなかなか決めることが出来ない。
 ヴァイオリンを始めて一年にも満たない自分の負い目がやはりあるのだ。
 転科をすれば、今まで以上に厳しい目で見られてしまう。
 それが堪らなかった。
「転科する、しないをそろそろちゃんと決めて貰わないとな…。…ま、お前さんなりに考えることがあるんだろうから、結論が出ないのは仕方がないと言えばそうなんだか…」
「すみません」
 香穂子は深々と頭を下げた後で、溜め息を吐く。
「ま、充分に考えてくれとは言えないのが、俺には心苦しいところなんだがな」
「もう少し、充分に考えてみます」
「ああ。準備の関係で二月頭には返事が欲しいらしいから」
「解りました」
 金澤が行ってしまうと、香穂子はまた溜め息を零す。
 今まで楽しくヴァイオリンをやってきた。転科をすれば、ヴァイオリンを弾く機会は沢山生まれるが、失うものもある。
「どっちつかずって駄目なんだな…」
 香穂子は珍しくまた溜め息を吐いた。

 金澤がどこかやるせない表情で歩いているのが見え、吉羅は呼び止めた。
「どうかされましたか? 金澤さん」
「…あ、吉羅か…。教師って損な役割だと思ってな…」
 金澤は切なそうに笑うと、窓の外を見下ろす。その視線の先には、香穂子の姿があった。
「日野に転科の話があるのは知っているだろう? アイツを多くの教師が推薦している」
「ええ」
「土浦とふたりの転科話だったんだが、土浦が早々と転科を決めたのとは対照的に、日野はまだ決めかねているようなんだよ。まあ…、あいつは音楽科の連中とはそれなりに因縁があるから、躊躇するのは解っているんだけれどね」
 金澤はまた溜め息を吐く。
 吉羅もまた、一生懸命ヴァイオリンを練習する香穂子を見つめながら、その複雑な想いを理解する。
 音楽科と普通科の橋渡しをし、随分と音楽科の生徒も香穂子に好意的になっているとは聞く。
 だが、その一部は、以前よりも香穂子に対して険悪な態度を取っているとも。
 それに香穂子のこころのなかで、遠慮もあるのだろう。
「吉羅、アイツの決断を待ってやってくれないか? 理事長としてギリギリまで待つのは可能だろう?」
「検討してみますが、決めるのはあくまで日野君ですから」
 吉羅は冷たくわざと言うと、「失礼」と金澤の前を辞する。
 転科は香穂子が決めることだ。
 それにサポートが必要ならば、いくらでもサポートする。
 吉羅は、自分でも気付かないままで、香穂子に無償の愛を捧げ始めていた。

 あいもかわらず仕事が溜まっていて、片付けるために、吉羅は土曜日も出勤していた。
 今は、ただ、香穂子が安心して音楽を勉強出来るように、学院を財政的に再建させようとしている。
 あの笑顔を守りたかった。
 早めに仕事を終えて、吉羅はいつものように駅前通りを車で走っていた。
 温かく、染み透るような音に魅せられて、車を降りる。
 そこには子供たちに囲まれて、楽しそうにヴァイオリンを弾く香穂子の姿があった。明るく眩しい笑顔に惹かれる。
 吉羅は無意識に香穂子に近付いていた。



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