4
香穂子が奏でていたのは、ガーシュインの”ラプソディ・イン・ブルー”で、軽快な音に、子供たちは本当に楽しそうに踊っている。 吉羅はその様子を微笑ましく思いながら、じっと見守るように聴いていた。 香穂子が目指す音楽というのは、恐らくは、誰もが温かな気持ちになって、感動するものなのだろう。 だからこそ、弾くステージなど関係無く、沢山のひとのこころに響く音楽を弾けるのかもしれない。 子供たちと戯れながらヴァイオリンを弾いている香穂子は、本当に綺麗だった。 自分よりも随分と子供である香穂子を綺麗だと思うなんて、今までの自分では到底考えられなかったと、吉羅は思った。 香穂子がラプソディインブルーを奏で終わると、吉羅はごく自然に拍手をした。 吉羅の拍手に驚いたのか、香穂子は振り返ってこちらを見る。 「…理事長…」 「楽しく、素晴らしい演奏に拍手を送るのは当然だ」 「あ、有り難うございます」 香穂子がカチカチになって頭を下げる姿を見ながら、何処か寂しい気分になる。 もう少し温かなリラックスした香穂子を見たかった。 いつも自分には何処か怯えているような態度を取られるのは、流石に切なかった。 もう少し。もう少しで良いから、打ち解けて欲しかった。 誰かのこころを欲しいと、自分に向いて欲しいと考えたのは、初めてかもしれなかった。 「日野君、気分転換にドライブに行かないか? 」 香穂子は一瞬驚いたようだったが、直ぐにニッコリと笑った。 「はい。お供します」 明るい声に吉羅はホッとしながら、頷いた。 香穂子を愛車の助手席に乗せ、ゆっくりと駅前通りを抜けていく。 「ドライブに誘って下さって有り難うございます。私、大好きなんです。車に乗るの」 まるで小さな子供のように、香穂子は車窓の景色を見て、喜んでいる。 無邪気な笑顔を見ると、甘い痛みがこころを走り抜けた。 自分にはもうないだろう純粋さを持った少女。その瞳を見ているだけで、幸せになると同時に、どこか痛くもなる。 決して手に入れることが出来ない相手のような気がしたから。 「何だか高速に乗っているだけで楽しいです」 香穂子の言葉に、吉羅は思わず笑った。 不意に、香穂子の視線が楽しそうに吉羅に向けられる。 「日野君、どうかしたのか?」 「理事長、運転が上手だなあって思いまして」 「有り難う。褒め言葉と思っておくよ。これでも車を走らせるのは好きでね。時間が出来た時には、なるべく運転しようと思っているよ」 「私は乗る専門ですけどね。兄が免許を取った頃に、みんな家族が嫌がるなかで、私だけはよく乗りました。車に乗せて貰うのは大好きだったので」 「私の運転は、お兄さんと比べるといかがかな?」 「理事長とお兄ちゃんを比べられないですよ。理事長が断然上手いです」 香穂子がくすりと笑うと、吉羅は上機嫌になる。 こんなにも素直に喜べたのは久し振りかもしれない。 「…気分転換ついでに八景島まで行かないか?」 「え!? 良いんですか! 嬉しいです! イルカが見たいです!」 「じゃあ行こうか」 香穂子の素直に喜ぶ笑顔を見ていると、もっと喜ばせたくなる。もっと笑顔を見たくなる。 こんなにも女性に甘い自分は初めてかもしれないと、吉羅は思った。 「それと日野君、こうして今はお互いにプライベートということで、理事長と呼ぶのは、せめて今は止めてくれないかな?」 「解りました。吉羅さんと呼びます」 「ああ。それで構わない」 吉羅は、久し振りに解放感のあるご機嫌な休日を過ごすことが出来るのが、何よりも嬉しかった。 八景島シーパラダイスに着くと、香穂子は本当に子供のように燥いでイルカを見る。 イルカとキスする時など本当に嬉しそうで、香穂子を見つめる吉羅の視線も意識することなく柔らかくなる。 香穂子が吉羅に向かって手を振ると、思わず手を上げて返した。 「すっごく楽しくて、面白かったですっ!」 「それは良かった」 香穂子が喜んで貰えばそれで嬉しかった。 こうして無償で誰かを喜ばせたいと思ったのは久し振りかもしれない。 姉を喜ばせたいと思った時以来かもしれないと、吉羅は思った。 「軽く食事をして行こうか? このあたりに美味しいイタリアンの店がある」 「本当ですか!? 嬉しいです! あ…」 手放しで喜んでいたのに、急に香穂子の表情は曇る。 「どうした?」 「…私ばっかり、こんなに楽しくて良いのかなっと…」 可愛い反応に、吉羅はフッと笑う。こんなに笑顔でいられるのは久方振りだ。 「私も充分楽しんでいるから、心配しなくて良い。これは私からのささやかなお礼だ。君が音楽を聴かせてくれたお礼だ」 「有り難うございます」 ニッコリと笑う香穂子が愛しくて、このまま無邪気さを独占出来ればと、思わずにはいられなかった。 吉羅の優しいまなざしに甘えて、つい燥いでしまった。 子供に見られたくはないのに、つい子供じみた行動を取ってしまった。 吉羅と自分を見ていると、まるで兄妹か、叔父、姪ぐらいにしか見えない。 どこから見ても恋人同士には見えない。それがどこか切ない。 「さあ、食事に行こうか」 「はい」 吉羅の後に着いて、元気良く一歩を踏み出した時だった。 「…きゃっ!」 イルカショーで路面が濡れていたせいか、香穂子はそのまま転びそうになった。 吉羅の腕が直ぐに伸びてきて、香穂子をしっかりと受け止めてくれる。 「大丈夫かね?」 「だ、大丈夫です…」 香穂子が見上げると、艶やかな少し長めの前髪が瞳に影を作り出し、吉羅を艶やかに魅せている。 余りに綺麗な色香に、香穂子はクラクラしそうになった。 「あ、有り難うございます」 吉羅は何処か不機嫌に顔を背けると、香穂子の手をギュッと握り締める。 濡れたイルカスタジアムを歩く間、吉羅はずっと手を握り締めてくれていた。 スタジアムを出ると、吉羅は手を離し、先にスタスタと歩き出す。 不機嫌にさせてしまったと、香穂子は切ない後悔に唇を噛んだ。 吉羅の車に乗り、レストランまで行く間、先ほどのような華やいだ気分ではいられなかった。 吉羅はまたいつものように冷たい表情に戻ってしまい、ただ真っ直ぐ前を見ていた。 連れて行ってくれたレストランは、料理は申し分なかった。 ついそれが嬉しくて、香穂子は食を進めてしまう。 「凄く美味しいです。このトマトソースが絶妙ですー」 「気に入ってくれたなら良かった。良ければ他にパスタはどうかね?」 「じゃあ、遠慮なく。えっと…、カルボナーラを」 「ああ」 一度にパスタふた皿も食べる女性なんて、きっと吉羅の住む世界には存在しないだろう。 しかもサラダやピザなどもたっぷりと食べているのだから。 吉羅が注文した後で、香穂子は恐る恐る訊いてみる。 「…吉羅さんが普段デートをする方々は、きっと…、こんなに食べないですよね?」 「そうだね。だけど君のように沢山食べてくれるひとは、見ていて気持ちが良いよ」 「だって凄く美味しいですから」 香穂子が笑いながら本音を言うと、吉羅の表情は柔らかくなった。 先ほどの冷たさがなかったかのように。 「沢山食べなさい」 「はい!」 吉羅の優しい瞳に、香穂子はホッとすると、パスタをたっぷりと食べ続けた。 家の前まで送って貰い、香穂子は恐縮しながら車から降りた。 「有り難うございました」 香穂子が深々と頭を下げると同時に、吉羅はいつものクールな顔に戻って車を発進させる。 見えなくなるまで見送りながら、香穂子は幸せな気分になっていた。 |