*無償の愛/天上の恋*


 香穂子を送った車中、吉羅は満たされた想いを抱きながらも、どこか痛みを感じていた。
 今日は久し振りによく笑った一日だった。充実したとても素晴らしき休日を、香穂子はくれたのだ。
 余りにも眩しく、愛らしかった香穂子。
 子供と大人が同居したアンバランスな美しさが、吉羅を魅了する。
 行動なんて子供そのものなのに、こちらがハッとさせられるような、大人の女性の色がある。
 香穂子が濡れた路面で足を滑らせ抱き留めた時、見つめてきた瞳は、女そのものだった。
 吉羅が息を呑んでしまうほどに美しかった。
 思わず抱き締めて、その純粋な部分を総て奪い去りたかった。
 狡猾なまでの欲情に、吉羅は息苦しさすら感じた。
 だからついいつもよりも冷たい態度を取ってしまっていた。
 冷たい吉羅の瞳に、香穂子は何処か哀しそうなまなざしをしていた。
 あの切なそうな表情を、吉羅は忘れられない。
 同時に、香穂子に強く欲情したことも忘れることなんて出来るはずもなかった。
 このままそばに置けば、確実に香穂子を抱き締めて、その純粋さを奪ってしまったのかもしれなかった。
 自制しなければ。
 だがそうすることが出来ないほどに、吉羅が香穂子に強く惹かれていたのは確かだった。

 吉羅の理事長就任式が迫り、香穂子はいよいよアンサンブルにも磨きをかけていく。
 今回は、吉羅の就任式であるがゆえに、香穂子も失敗は出来ないと思っていた。
 最高の演奏で、吉羅の門出を応援してあげたい。
 香穂子はそれだけを胸に、更に練習に励んでいた。
 月曜日ということもあって理事長室に呼ばれて、香穂子は多少なりとも緊張してしまう。
 練習を真面目にしてきた目安になる。
 香穂子が緊張しながら、吉羅と都築の評価を真っ直ぐ受け止めた。
「調子が良いようだね。課題も確実にこなしている。この調子で頑張ってくれたまえ」
 吉羅が穿った目ではなく、きちんと評価してくれたのが、香穂子には何よりも嬉しい。
「有り難うございます。この調子で頑張ります」
「ええ、期待しているわ」
 都築の見守ってくれるような笑みに、香穂子も思わず微笑んだ。
「いよいよ明後日は、理事長就任式ね。良いアンサンブル演奏を聴けるように楽しみにしているわ」
 都築の優しい瞳と吉羅の厳しいのに何処か見守るような優しい瞳。
 あの瞳を見つめていると、心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
「精一杯頑張ります。有り難うございました」
 香穂子が想いを込めて深々と頭を下げると、吉羅も都築も微笑んでくれた。

 理事長就任式の日、香穂子は気心が知れたコンサートのメンバーと、アンサンブルを組み、演奏をする。
 スタンダードな白いドレスを着た自分を、香穂子は鏡の前で何度も確認をした。
 今日は吉羅が会場で見てくれている。
 だから綺麗でいたかった。
 だから一番の演奏をしたかった。
 子供としか思ってくれないひと。
 学院再建のためのパーツとしか思ってはくれないひと。
 けれども、香穂子の恋心は止めることなんて出来やしなかった。
 好きでいることだけは自由だから。
 恋愛対照とは見てくれないだろうが、それでも香穂子は吉羅を好きにならずにはいられなかった。
 吉羅のこころに音楽を届けたかった。
 自分の想いを。
「香穂、時間だよっ」
「うん。有り難う」
 呼びに来てくれた天羽に頷くと、香穂子はステージへと向かった。

 吉羅は客席で香穂子が演奏をするのをひたすら舞っていた。
 自分のために演奏してくれる香穂子が、とても愛しい。
 まるで自分のことのように緊張しながらも、何処か楽しんで華やいだ気分になる。
 ただステージを見つめ、愛しい少女を見つめた。
 ヴァイオリンは自分で音を作らなければならない難しい楽器だ。押さえる場所が1ミリ変われば、音は変わる。
 正しい音感がなければ操ることが出来ない楽器だ。
 香穂子は一年も満たないうちに正しい音感を身に着けて、ここまで来た。
 それは驚異的なことだ。
 香穂子が立つだろう位置を吉羅は真っ直ぐ見つめた。
 ずっと見守っていてやる。
 たとえどんなことがあっても、香穂子から目を逸らせずに見ていきたかった。
 吉羅にとって、香穂子の音は、誰よりも大切で魅力的な音だ。
 こんなにもこころが籠った音を聴かないなんて、理事たちはなんて馬鹿げた考えの持ち主になのだろうかと思った。
 アルジェントリリを始めとするファータたちが講堂に集まり、華やかな理事長就任式の演奏を聴きに来ている。
 ファータたちは異口同音に、香穂子のアンサンブルが楽しみだと言っていた。
 それは吉羅も同じだ。
 今日の就任式の目玉は、ある意味香穂子たちのアンサンブルなのだから。
 囁くファータたちの声を微笑ましく見つめながら、吉羅はステージを見つめていた。
 たった一曲で終わるのはもったいないと思いながら、吉羅は香穂子の演奏を待ち侘びた。

 香穂子はステージに立ち、ただ吉羅だけを見つめる。
 香穂子の周りには、アルジェントリリを始めとするファータたちが飛び回り、応援してくれているのかが解る。
 緊張が消えていく。
 精一杯演奏することが出来るだろう。
 香穂子は何度か深呼吸すると、ヴァイオリンを奏で始めた。
 大好きなひとの門出を祝えるように。
 これから歩く道が、明るく華やいだものになりますように。
 香穂子はこころから祈りを捧げ、演奏に集中した。

 香穂子の温かな音が、吉羅のこころに語りかけてくる。
 香穂子のこころが、吉羅のこころに届き、甘く切ない気分になる。
 香穂子が好きだ。
 だがその想いを押し付けることは出来ない。
 香穂子を愛しく思う気持ちは、自分のこころのなかで隠さなければならない。
 決して誰にも見せてはならない。
 香穂子が演奏を終え、頭を下げる。
 その姿に、惜しみない拍手を送った。
 香穂子がヴァイオリニストになるのであれば、惜しみない協力をしよう。
 どんなことがあっても。
 吉羅は改めて強く誓った。

 理事長就任パーティに呼ばれ、香穂子はどこか落ち着かない。
 経済界、音楽界の名士が集まっており、気後れしてしまう。
 経済界の名士は、吉羅の顔なのだろう。住む世界が違うのだと、香穂子は改めて感じる。
 挨拶周りをする吉羅を視線で追いながら、香穂子はどうしようもないほどに好きの成分が溢れてくるのを感じる。
 親しげに話し、笑みを浮かべる吉羅を見つめながら、自分との立場の違いを感じて泣きたくなった。
 不意に雑音が聞こえる。
「理事長は普通科の素人を学院代表のオーケストラで、コンミスに指名したんですって」
「芸能プロダクションじゃないんだから、学院ブランドに傷がつくものですな」
 自分のことを言われている。
 大人のキツい言葉は、香穂子のこころを酷く傷付ける。
 痛い。痛くて堪らない。
 自分のことなら堪えられるが、吉羅のことになると、香穂子は堪えることが出来なくなる。自分のこと以上に傷付いてしまう。
 香穂子は唇を噛みながら何とか堪え忍んだ。
 本当は強くない。
 本当は誰よりも甘えたで、堪えるこころも忍ぶこころも知らなかった。
 コンクールで鍛えられた精神力で何とか堪える。
「普通科のコンミスはどなたなのかしら?」
 嫌味な声と視線が突き刺さる。
 香穂子はグッと背筋を伸ばし、腹を括ると、返事をした。
「私です」
 香穂子の凜とした声に、理事たちの凶器のような鋭い視線が投げ付けられた。
「…あなた、あなたより実力のある生徒が、音楽科に沢山いるのよ。辞退なさい。恥知らずよ」
キッパリと言い切られても、香穂子は怯まなかった。
 反論するように深呼吸をしたところで、広い背中が香穂子の目の前に立ちはだかる。
「お言葉ですが、私は彼女に実力があると認めた上で、コンミスに指名したんです」
 守ってくれるように立ったのは吉羅だった。



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