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広い広い吉羅の背中に初めて守られて、香穂子は嬉しさの余りに泣きそうになる。 この背中にすがりつきたい。 縋ってずっと守られていたい。 だが、すがりつきたい想いを堪えて、香穂子は踏ん張った。 「だったら彼女の演奏を今すぐにでも聴かせてくれて、その実力を我々が認めれば、彼女がコンミスになることを認めましょう」 理事のひとりは、香穂子にはそんな実力などないと言いたげに、何処か高飛車に言う。 香穂子は腹が立って堪らなかったが、それを必死になってこころに閉じ込めた。 「先ほど、彼女には理事長就任式で素晴らしいヴァイオリンを奏でて貰いましたよ。みんな喜んでいましたが、それを聞かれましたか?」 吉羅はあくまで冷静に大人な態度を取ると、理事たちをチクリと牽制する。 吉羅の雰囲気を見ていると、古狸な理事たちは圧倒されているように思えた。 「…忙しくてね。だけど本当に実力があるとするならば、今ここで弾くことが出来るのではないかね」 本当に意地悪な理事たちだ。 きっとこれは香穂子に対して意地の悪いことを言っているわけではないのだ。吉羅に対して、無理難題を押し付けているのだ。 それならば、一生懸命やるだけだ。 吉羅には絶対に恥をかかせやしない。 香穂子は覚悟を決めると唇を噛み締めた。 「日野君、すまないが演奏をやってはくれないか?」 吉羅のビジネスライクな声に、香穂子はほんの少しだけ胸を痛めながら、頷いた。 緊張するが、吉羅と自分の立場のためにはやるしかない。 「僕が一緒に演奏しますよ」 柔らかな優しい声に香穂子が振り返ると、そこには王崎がにっこりと笑って立っていた。 これほど頼りになる存在は無い。 香穂子は思わず笑みを零した。 「じゃあ日野さん、演奏しよう。ベートーベンの“優しき愛”で良いかな」 「はい。有り難うございます」 守るように立ってくれていた吉羅を見上げると、静かに頷いてくれる。だがそのまなざしは何処か冷たい。 吉羅の瞳から温もりを見つけるというのは、最早、不可能なのだろうか。 そう思うと、何故だか泣きたくなってしまった。 「日野さん、スタンバイして」 「はいっ」 王崎とふたりで会場のセンターに行き、香穂子は深呼吸をしてヴァイオリンを構える。 吉羅を守りたい。 吉羅を守るために出来るなんてことは微々たるものかもしれないが、それでも何かをしたかった。 香穂子はヴァイオリンに集中し、奏で始める。 大好きなひとのこころに届くように祈らずにはいられなかった。 吉羅は、センターで、慈しみ溢れたタイトル通りの優しい愛を滲ませるメロディに、こころがざわめく。 香穂子の音を聞きながら、かつて吉羅が憧れていた姉が作り出す音を思い出していた。 香穂子の音は、姉の音よりも更に温かさを感じる。誰が聴いてもこころが温かくなるような声だ。 香穂子の音は、吉羅のかたくななこころを柔らかく包みこんでくれた。 あの音と合わせたかった。 あの音とユニゾンしたかった。 だがもう自分はヴァイオリンを捨ててしまった身だ。 香穂子のヴァイオリンと音を重ねることは出来ないのに。 今、香穂子と音を合わせている王崎が羨ましくてしょうがなかった。 「吉羅、また、ヴァイオリンを弾きたくなったか…?」 吉羅の横に立った金澤が、さり気なく呟く。 「…金澤さん…」 「日野と一緒に演奏したい…なんて顔をしているぜ? お前さんは」 金澤の的を得た鋭い一言に、吉羅は微苦笑する。 「…まあ、御想像にお任せ致しますよ…」 吉羅は香穂子から視線を逸らさずに見つめる。 いつか、おおらかな気分で香穂子とヴァイオリンを奏でることが出来るのだろうか。 それは吉羅の見果てぬ夢でもあった。 香穂子と王崎がヴァイオリンを奏で終わると、会場から温かな拍手が送られた。 拍手の音を聞きながら、香穂子は緊張から解き放たれて、躰から力を抜いた。 吉羅に視線を送れば、いつもよりも優しい視線を香穂子に送ってくれる。 いつもは本当に冷たくて、厳しく、優しいなんて言葉が最も似合わない瞳なのに、今日は何処か優しかった。 香穂子がお辞儀をすると、更に大きな拍手がされる。理事たちを見つめると、何処か苦虫を噛み潰したような複雑な顔をしていた。喝采せざるをおえないといった表情だった。 「これで彼女の実力はお分かり頂けたでしょう。学院は音楽科、普通科は関係なく、優秀な生徒を積極的にプロデュースしていく予定です。ですから普通科だからといって、穿った目では見ないで頂きたい」 吉羅は何処か理事たちに挑発的に言うと、口許には不適な笑みを浮かべる。 吉羅に理事たちはこれ以上は何も言うことが出来ないかのように、口を噤んでしまった。 香穂子はとりあえずひとつの難局を乗り越えたと、ホッと躰から力を抜く。 理事たちに吉羅が自信ありげに微笑んでいるのが見える。 「私は日野君の実力を認めています。彼女ならば、学院に新しい音楽を奏でてくれるでしょう」 吉羅の言葉には力強さがあり、誰もを説得出来てしまうオーラがあった。 実力を吉羅が自分のヴァイオリンを評価してくれていた事実が、とても嬉しい。 理事たちがすごすごと吉羅から離れたあと、若き理事長は香穂子に近付いてくる。 側に来られるだけでおかしくなってしまうぐらいに、官能的な緊張が走り抜けた。 胸が燃え盛るように苦しい。 なのに信じられないぐらいに嬉しい。 「日野君、随分と上手くなったね」 「有り難うございます。あ、後、庇って下さって有り難うございました」 香穂子がお辞儀をした後で顔を上げると、吉羅は何処か冷徹な顔をしていた。 「私は何もしてはいない。理事を動かしたのは君だろう? それに私は世辞関係は嫌いでね。思ったことを言ったまでだ。君は今後も学院のために大いに働いて貰わなければならないしね」 吉羅らしい冷静な言葉だった。 先ほどまで温かだったこころが急激に冷えて行くのを感じる。 所詮は、学院のために働くパーツとしてしか、見て貰えないのだろうか。 ひとりのヴァイオリニストとして、ひとりの女の子として見ては貰えないのだろうか。 香穂子はこころが凍えてしまうほどに哀しくかった。 吉羅の言葉に上手く反論出来ない。 香穂子は唇を噛むしかなかった。 「吉羅理事長、彼女の実力は解ったが、私たちはもっと明確なものを見せて貰いたいんだよ。コンミスとヴァイオリニストとは求められているものは違う。どうかね、彼女のアンサンブルを私たちに聴かせてくれる機会を設けては貰えないかね。ま、それも成功するかどうかは解らないから、代わりのコンミスかコンマスを用意しておいたほうが良いだろうがね」 うるさ方の理事のひとりが口を開く。 アンサンブルコンサート。 正に吉羅も香穂子も崖っぷちにあるコンサートだ。 理事の意地悪なまなざしを見ていると、香穂子はやらなければならないと、奮起する。 「日野君、どうかね、アンサンブルコンサートを開くのは」 吉羅は香穂子を、厳しく試すような瞳で見つめてくる。 考える余地なんてない。 理事たちにコンミスであることを、完全に認めて貰わなければならない。 「解りました。やります」 香穂子の凜とした堂々とした声に、吉羅は薄く笑いながら頷いた。 理事たちが行ってしまった後、吉羅は香穂子に一瞬だけ優しい笑みをくれる。 「よく言ってくれた、日野君。これは君が音楽の世界に踏み出す第一歩だ。君はファータたちに巻き込まれて、いやがおうにも音楽の道を歩き始めた。そしてこれからも歩かなければならない。それにはこれぐらいの試練は当然乗り越えなければならない。君をコンミスに指名したのは、それくらいの壁を乗り越えなければこれからを過ごせないだろうからね…」 「吉羅理事長…」 柔らかな瞳が厳しくなる。 「私は話過ぎたようだ。では」 吉羅は再び名士たちのなかに入っていく。香穂子はこころが甘く沸騰するのを感じていた。 |