7
自然と学院の生徒たちだけが集まり、そこで楽しそうに笑っている。 輪の中心は勿論、日野香穂子だ。 かつてコンクールで切磋琢磨した者たちを始め、アンサンブル仲間、王崎や音楽教師である金澤までが、 香穂子を熱いまなざしで見つめている。 日野香穂子は美人になる要素は沢山持ち合わせてはいるが、まだまだ発展途上で、決して絶世な美女ではない。 なのに多くの者が慕うというのは、言い表せない魅力があるのだろう。 各界の名士に囲まれながらも、本当は、香穂子の温かな笑顔を見つめていたかった。 そばにいて、他の男に牽制するまなざしを送りたかった。 だが、そんなことは出来ない。 香穂子は生徒だ。 吉羅にとっては、守らなければならない者であると同時に、大切なクライアントでもある。 だからおいそれと行動なんて出来るはずもない。 いくら愛していても。 いくら大切に思っていても。 香穂子は侵してはならない神聖な立場にあるのだ。 無償の愛情を捧げることしか、自分の気持ちを表現することは許されない相手なのだから。 吉羅は、香穂子に背を向けると、クールなビジネスライクな態度で、来賓たちの相手をした。 「あ、あのひと、確か…有力代議士の娘さんの筈だよ。僕、見たことがあるんだ」 加地が珍しい者を見るかのように、美しい女性を視線に捕らえている。 香穂子は加地の視線の先を追う。 大人の魅力溢れるひと。 いくら香穂子が背伸びをしたとしても、到底追いつける筈のない雰囲気を持った女性だった。 「吉羅さんと、そんなに歳は変わらない筈だよ。あんなに綺麗なひとなのに、なかなか結婚しないんだよね」 加地はさり気なく言いながら、食事を楽しんでいる。 香穂子は気が気でなかった。 吉羅に近付いていく女性を目で追いながら、何時しか何処か狡猾な瞳をしてしまう。 吉羅は自分のものではないのに。 吉羅は、女性の存在に気付き挨拶をしている。ふたりは楽しそうに暫く話し込んでいた。 お似合いだ。 本当に完璧な組み合わせではないかと思わずにはいられない。 それに比べると、いくら吉羅の横にいても、どこから見ても生徒と理事長にしか見えないではないか。 所詮、目を掛けてくれているのは、普通科でヴァイオリンをやっているという事実に過ぎない。 「…日野さん、気分が悪いの? あんまり顔色が良くないよ?」 加地が心配そうに見つめてくる。 香穂子は誤魔化すように笑うと、加地を見た。 「ちょっとひとに酔ったのかな? 少し休んだら大丈夫だと思うよ」 「そう? だったら良いんだけれど、かなり気分が悪そうだからね。会場の端に椅子があるし、座って休憩しておいたら良いよ。僕も一緒にいるし」 「大丈夫だよ。ちょっと外の空気を吸えばね。中庭で、深呼吸でもしてこようかなあ。そうしたら随分と違うと思うから」 香穂子は加地に無駄な心配をさせないように笑うと、「ちょっと出てくるね」とスタスタと会場を出た。 今はひとりになりたかった。 こんな嫉妬に塗れた自分が、嫌でしょうがなかったから。 香穂子は中庭に出ると、深呼吸をいっぱいした。 吸い込む空気に潮の香りが入り込んでくる。 これぞ横浜の香りだ。 香穂子が最も安心する香りなのだ。 香穂子は何度も伸びをして深呼吸を繰り返し、躰のなかに澱んだ嫌なものを吐き出そうとした。 一番寒い冬の季節なのに、寒いとは感じない。 寒さに麻痺してしまうほどに、感覚はおかしくなっていた。 「…日野君…、君は一体、こんなところで何をやっているんだ…」 飽きれ果てた声に振り返ると、厳しく睨みつける吉羅の姿があった。 腕を組んで、不機嫌極まりないオーラを滲ませている。 「君は確か、最近まで風邪を引いていたと記憶しているが」 「風邪は引いていましたけれど、もう治りました」 香穂子がキッパリと言い切ったにも関わらず、吉羅の表情は更に不機嫌になる。 不機嫌になるようなことをひとつもした覚えがない。 「少なくとも、理事長よりは健康に気を遣っていると思いますけれど」 香穂子が反論するように言えば、吉羅は更に睨み付けてくる。 「健康に気を遣っている人間が、こんな寒い時期に、ノースリーブのドレスで外に出るとは思えないがね」 吉羅はかなり怒っているらしく、いつも以上に刺のある声で言う。 厳しく、そして香穂子を攻め立てている雰囲気すらある。 「日野君、君は、本当に何も解ってはいないんだね。私が言ったことを何一つ…」 吉羅はまた溜め息を吐くと、自分のジャケットを脱ぎ、いきなり香穂子に掛けてきた。 「理事長…! だって理事長が風邪を引きます」 「私は君と比べて袖のあるものを着ているから、まだマシだとは思うけれどね」 吉羅はさらりと言うと、冷たい瞳を香穂子に向けてくる。 冷たい筈なのに、香穂子の総てを焼きつくしてしまうのではないかと思う程だ。 「余りここにいると躰に良くない。会場に戻りなさい」 「…はい…」 吉羅のジャケットごと、香穂子は自分の躰を抱き締める。 吉羅の温もりが躰に感じて、まるで抱き締められているようだと思う。 ほんのりと吉羅のコロンの匂いがして、こころが切なく潤んだ。 ホテルの中に入ると、香穂子はジャケットを脱いで吉羅に差し出す。 「理事長、有り難うございました」 「日野君、風邪は万病の元だ。風邪だからといって侮るものじゃない」 吉羅は飽きれ果てると言いたいような顔をすると、ジャケットを素早く纏う。 吉羅のジャケットを纏う姿はとても絵になり、香穂子は思わず見とれてしまう。 写真を撮ればとても良いものが撮れるかもしれないと思う程に、綺麗で素敵な瞬間だった。 大人の男性の色香を感じて、鼓動のリズムがおかしくなる。 自分とは違う世界に住んでいるひとなのだと、思い知らされたような気がした。 会場に戻ると、吉羅はセレブリティたちの輪に入り、大人の会話を楽しんでいる。 金澤が香穂子たちに集合をかけた。 「そろそろお前たちは中座しないとな。明日も学校だからな。吉羅からタクシーチケットを預かっているから、それでお前たちは帰れ」 金澤はひとり、ひとりにチケットを手渡してくれる。 「日野と俺、月森は家が近いから、俺たちは三人で一枚で良いです」 土浦の提案に、香穂子も月森も頷いて、三人で帰ることになった。 「じゃあお前たちは三人で一枚だな」 金澤は代表にと土浦にチケットを渡してくれた。 香穂子は吉羅と先ほどからずっと一緒にいる女性を見つめながら、ふたりのこの先のことを思うと不安になる。 ふたりで何処かに出掛けたらどうしようだなんて、そんなことばかり考えていた。 「日野、行くぞ」 「う、うんっ。金澤先生おやすみなさい」 「ああ。また明日な」 本当は吉羅に挨拶をして帰りたかったが、話をしている手を止めさせるわけにはいかなかった。 香穂子は、土浦たちと一緒に静かに帰路につく。 切ない帰路だった。 香穂子が帰ったのは、一筋の清らかな雰囲気が消えたことで気付いた。 本当は送ってやりたかったが、出来なかった。 「吉羅、生徒たちも帰ったから、俺も帰るわ」 金澤が吉羅に近付きながら、呟く。 「はい、金澤さんもご苦労様でした」 「あ、そうそう。月森、土浦、日野は方向が同じだから、一台のタクシーで帰っていったぜ。ま、あいつらがちゃんと日野を送り届けてくれただろ」 金澤は吉羅にチケットを手渡しながら、安心しろとばかりに頷いた。 「じゃあ俺はこれで」 「ご苦労様でした」 金澤の背中を見つめながら、吉羅は苦々しい気分になる。 香穂子を月森たちが送っていったことが気に入らない。 こんなにも燃え盛る嫉妬を感じたのは、生まれて初めてだった。 |